帰国すると軍陣衛生学の牽引者として本業に励む一方で、次々に翻訳小説を発表し、「鷗外漁史」のペンネームで鮮烈なデビューを果たします。翻訳詩集「於母影」が大ベストセラーになり、翌年には「舞姫」を発表し、一躍文壇の寵児になりました。
軍医としても日清・日露の二つの戦争に従軍しています。ただしこの時、陸軍の兵食を、脚気の原因のビタミンB1不足につながる米食に拘(こだわ)り続け、多くの兵を損ないました。このことは鷗外の消せない疵(きず)でしょう。
本書のひとつの焦点は、なぜ鷗外は脚気対策で、海軍で効果的だと判明していた麦食を採用しようとせず、米食に拘り続けたのかという疑問です。
鷗外の立場では麦食への転換は難しかったのだろう、というのが私の結論で、そのことが多少なりともわかってもらえるように書くことをめざしました。
それは鷗外の失敗を正当化するものではありません。しかし後知恵での批判は簡単ですが非生産的だ、と思います。それは医学領域ではしばしば起こることで、過去の失敗の本質を学ぶことが、よりよい未来につながるのです。
鷗外は、旺盛な生産能力を有した天才です。後世出版された「鷗外全集」は38巻にも上る大著です。研究者も大勢いて、正確な数はわからないけれども関連図書は1万点を超えているだろうと、鷗外記念館の副館長はおっしゃっていました。
鷗外は陸軍軍医部で軍医総監という最高位に就き、文筆業でも多作で、明治文壇の旗手的な地位にいます。批評家としても「後世に名を残す二傑」と評価されました。どの分野でも一家を成すような質の高い大量の業績を挙げたため、誠実な研究者は一分野で手一杯になってしまいます。なので鷗外の全体像を俯瞰できる評伝は少ないのです。
特に文学領域では彼が生み出した作品群に誘い込まれ、一層複雑怪奇な様相を呈して、所謂「群盲象を撫でる」の状態になってしまうのです。
けれども鷗外はひとりの人間で、軍医、作家、評論・啓蒙家の顔をひとつの肉体に収めていたのです。すると三つの顔を統合しなければこの巨人の実像は理解できません。
私は北里柴三郎と森鷗外の衛生学領域での確執を描いた「奏鳴曲 北里と鷗外」という小説(文藝春秋、2022年2月刊)を執筆した時、そのことを痛感しました。
なぜ鷗外には、そのような多面的な活動が可能だったのでしょう。