森鷗外という名を聞くと、みなさん、どんな印象が浮かぶでしょう。
真っ先に思いつくのは「舞姫」の作者、明治の大文豪というあたりでしょうか。
あるいは第八代軍医総監として8年半、陸軍軍医部のトップを務めた優秀な陸軍省の官僚という顔もあります。日清・日露戦争では米食の兵食に固執し、多数の兵のいのちを失うことになった元凶だ、とも言われています。
その素顔はどのようなものだったのでしょう。
鷗外は筆名で本名は林太郎、文久2年1月19日生まれ、西暦で1862年2月17日です。石見の国、津和野藩の鹿足郡津和野町田村横町に父静男、母峰子の間の長男として生まれました。石見国津和野藩は4万3千石の小藩で藩主は亀井茲監(これみ)、森家は代々、亀井家の侍医で、生まれた時から医師になることが宿命づけられていました。
鷗外は、森家を大切にしました。それは母・峰子の強い意志でした。
峰子の父、鷗外の祖父で白仙を号した綱浄は養子でした。本来の跡継ぎの秀菴(しゅうあん)が家業を嫌い出奔し森家は一旦断絶します。その後養子に入った綱浄が森家を再興したのです。
森家は70石から50石に減俸されます。この「森家の屈辱」を晴らすことが祖母清子、母峰子の宿願となり、嫡男の鷗外の肩に重くのしかかってくるのです。
明治維新で廃藩置県が行なわれると津和野を出て父と二人、上京し、親戚で明治政府に出仕した西周(1829〜97)を頼ります。
西周の父・時義は森家の次男で、出奔した秀菴の兄に当たります。つまり西周は鷗外よりも森家の正統な血筋なのです。この人物が鷗外の人生に多大な影響を与えました。
鷗外が憧れたのは、西周の人生だったのかもしれません。
津和野の藩校から東京大学医学部時代まで神童として名を馳せた鷗外は学生時代、自発的にドイツ人外科医の教科書を翻訳しています。鷗外は最初に翻訳業を行なったとも言えます。文部省の官費留学生を目指しますが卒業直前に下宿が火災に遭い授業のノートを焼失した上、肋膜炎に罹り勉強が十分できず不本意な成績に終わりました。
鷗外の初めての挫折です。けれども東大医学部を卒業後、若干の浪人時代を経て陸軍軍医部に入省すると、ドイツの衛生書の大著を翻訳して頭角を現し、陸軍省の官費留学生としてドイツ留学を果たします。ドイツでは衛生学の論文を数本仕上げ、国際学会で日本の国威を発揚する発言をためらいませんでした。
けれどもドイツでの最大の収穫は文学との遭遇でした。