ちくまプリマー新書

豊穣な天才「森鴎外」の世界にようこそ 海堂尊が描く複雑怪奇な人生
『よみがえる天才8 森鷗外』序章を公開

軍医・作家、啓蒙家……どの分野でも一流の仕事を残した森鷗外。『チーム・バチスタの栄光』シリーズで知られる海堂尊氏による評伝がちくまプリマー新書『よみがえる天才』シリーズより登場しました。さまざまな肩書きをもつ鷗外はその複雑な人生をどのように生きたのか? 本書の序章を公開します。

 軍医、作家、啓蒙家はどの領域でも、名を成すには全力を傾注しなくては不可能です。しかし鷗外はどれも軽々と業績を達成したように見えます。それは凡人から見ると大変な努力に思われることが苦にならない、天才の集中力を持ち合わせていたからでしょう。

 その結果、どの分野でも彼はハードルを楽々越えることができたため、鷗外は全ての分野に執着せずに済んだのかもしれません。

 たとえば日清、日露の戦争中は文学活動や評論活動は下火になりますが、戦争中も現地の古書を渉猟し書写し、歌や詩を即興で作り、戦後に「うた日記」を刊行しています。「うた日記」はどんな戦記文学よりも戦争中の空気を表している作品となっています。

 軍医として生きながら、同時に作家としても楽々と生きたのです。

 そんな鷗外もその時に集中しているものには、尋常ならざる執着心を見せています。

 そうした時は「筋」や「大義」を重視したため、多彩な分野での論争として発露します。そしてその時は徹底的に相手を攻撃し続けますが、一旦論争が終結してしまうともう見向きもせず、あっさりそこから離れてしまうのです。

 鷗外がそのように生きていけたのは、生の実感が空疎だったせいかもしれません。幼い頃から医師になることを義務づけられ森家を担う宿命を背負わされ、本当は何になりたいのか、何をしたいのか明瞭に意識しないまま、与えられた課題や難題をこなしているうち、降りられない高みにたどり着き戸惑っている、そんな少年の姿が浮かびます。

 博覧強記、卓越した語学力、学術と文学の膨大な業績と作品群を考えると、鷗外は常人の2倍の生を送っていたように思えます。文豪ゲーテの畢生の大作「ファウスト」を、わずか半年で訳了するなど、常人の成せる業ではありません。卓越した言語能力を有していて、漢詩もたくさん作り皇漢医(漢方医)の書も読みこなすなど漢文の素養も深い。

 医学校ではドイツ語で授業を受け、4年間のドイツ留学で原書を400冊以上読了し、ドイツ語はネイティヴに近く、驚異的な速度で訳すことができたのでしょう。

 多くの業績を成し得たのは、鷗外が「ショート・スリーパー」(短眠者)だったことも大きな理由でしょう。鷗外は知人に「人間は2時間寝れば十分だ」と話しています。

 ならば昼は軍医の最高位・軍医総監の業務、夜は明治の大文豪という、二足の草鞋の生活も楽々こなせたのだろうと理解できます。

 鷗外は死の直前の大正11年(1922)7月6日、親友の賀古鶴所(かこつるど)を呼び、遺言を口述しました。遺言は故郷の津和野に石碑として残されています。

 遺言で「石見人森林太郎として 死せんと欲す」とし、「宮内省陸軍皆 縁故あれども生死の別るる瞬間 あらゆる外形的取扱ひを辞す」とし、「墓は森林太郎墓の 外一字もほる可らす/宮内省陸軍の栄典は絶対に取りやめを請ふ」と記しています。

 これを読むと、鷗外は世俗の名誉に興味のない、悟った人のように思えます。

 実際、大正11年7月、鷗外が没すると翌8月、一斉に各文芸誌が鷗外追悼号を刊行しましたが、そこで「森鷗外は覚者として没したり」と評されていました。

 しかし遺言をそのまま受け取るとまた、鷗外の思惑に引っ掛かるでしょう。

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