筑摩選書

消えた鉄道の伝説
『北海道廃線紀行』自著解題

戦後、産業構造が変容し、最盛期には4100キロにのぼった北海道の鉄道の約4割が消滅した。そこでは何が失われ、何が残ったのか? 紀行作家として鉄道の魅力を伝える著者が廃線跡を丹念に取材し、開拓使、地域の栄枯盛衰、そこに生きた人々の息遣いを活写する『北海道廃線紀行』。そこに収まりきらなかった北海道と鉄道への思いを、PR誌「ちくま」より公開します。

 学生時代を札幌で過ごした私は、在学中北海道の各地を歩いた。当初登山に励んでいたが、やがてローカル線に乗るのが楽しみとなり、ほとんどの路線を乗りつぶした。といえば鉄道マニアか、と思われそうだが、撮影とかグッズコレクションにはさほど興味がなく、車窓から風物を眺めボックス席を書斎がわりに読書するのが好きだった。今でいえば〝乗りテツ〟、あるいは〝読みテツ〟となるのだろうが、当時はそんな言葉はなかったから、鉄道ファンの範疇としては変わり者だったに違いない。
 北海道は蒸気機関車の〝聖地〟だった。本州で役目を終えた蒸気機関車の最後の舞台が北海道だったのである。北海道の山河、大空に蒸気機関車はよく似合った。高度成長期のことで新幹線が時代の華だったが、一九世紀の産業遺産ともいうべき蒸気機関車が老将のごとく雄叫びをあげて、荒野を疾駆するさまは一幅の絵画を眺めるようだった。
 卒業後、私は鉄道趣味雑誌の編集記者を経てフリーランスとなり、全国の路線を取材して回ることになるが、北海道は第二の故郷に思え、機会があるごとに渡道した。すでに蒸気機関車は消えていたが、ローカル線にはまだ活気があり、人の温もりがあり、鉄道は通勤、通学、また産業の担い手としての役割も果たしていた。
 廃線のニュースが伝わりはじめたのは昭和の終わり、国鉄が分割民営化された頃だっただろうか。地方のローカル線が次々に姿を消し、ラストランに群がる鉄道ファンたちの姿がニュース番組に映し出された。廃線には地方の過疎化、地元民の高齢化、少子化が影響していた。家族一人に車一台というモータリゼーションも加担している。
 いつのまにか半世紀が経ち、北海道の時刻表地図を見て唖然とした。最盛期だった昭和四十年代の路線はもはや半減しており、道北、道東地区は今や空白に近い状態である。
 そこで新たに決意し、廃線歩きをはじめたのが三年前のことだった。消えた鉄道の歴史、風土、見聞を今にとどめておこうと毎年北海道に通った。
 記憶に残る路線、駅跡はいくつもあった。
 例えば深名線の朱鞠内湖。もとはダム建設のための人工湖だが、汀線は複雑に入り組み、いくつもの支流が流れ込み原始の湖のようだった。そこで民宿に泊まり一日イワナ釣りを楽しんだ。その朱鞠内湖は現在も変わらず神秘的で、今は幻の魚となったイトウ釣りのメッカとなっていた。
 大雪山の麓を走った士幌線の終着駅、十勝三股。かつての木材の町はすでに消滅していたが一軒だけカフェが開いていた。山中の廃線跡だ。不思議に思い訊ねてみたら以前は山小屋だったという。その山小屋は私がかつて登山客として泊まった宿だった。
 標津線の根室標津駅では駅前食堂が今も健在だった。代は替わり娘さんが女将となっており、二階家の清潔なレストランと化していたが、名物の北海シマエビの入った鍋焼きうどんの味は変わっていなかった。
 もはや半世紀が経つが、それは自らの青春の記憶を辿る旅でもあり、消えゆく風景の確認でもあった。
 かつて鉄道は文明であり、産業の担い手であった。炭鉱、にしん漁、馬産、砂金、開拓使、屯田兵……、廃線跡にはそうした北海道開拓の歴史が埋もれている。
 広尾線には開拓団だった晩成社の歴史が秘められていた。イナゴの群れ、熊の襲撃に耐えた彼らの労苦が今日の十勝の酪農王国を築いたのだ。あるいは日高本線沿いの牧場風景。今でこそサラブレッドの名産地となっているが、ここには故郷の淡路島を追われ移住した洲本藩士らの苦渋の歴史が埋もれている。
 集治監(監獄)が文化を背負っていたことも新発見だった。
 札沼線の月形には樺戸集治監が博物館として残されていた。囚人らは道路開削や石炭採鉱などの非情な強制労働で知られている。しかし、一方でベースボールを楽しんだという記録もあった。当時野球は札幌農学校の記録しかなかったが、集治監対抗野球が行われていた、という意外な出来事もあったのだ。
 廃線跡は今やレールも道床もなく茫漠とした草原と化している。もの言わぬ〝草原の記憶〟を書き残しておきたいと思った。
                          (あしはら・しん 紀行作家)

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