移動する人びと、刻まれた記憶

第2話 国境の島の梨畑①
――対馬に移住した韓さんの話(前半)

韓国から、世界へ。世界から、韓国へ。人が激しく移動する現代において、韓国の人びとはどのように生きてきたのか? 韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載第2話は、対馬に移住した韓さんの話。今回は、その前半をお届けします。

対馬に移住した韓さん
 韓さんは1958年生まれの在日3世、今年になって名古屋から対馬に移住した。
 最近、友人や先輩方の間でちょっとした移住ブームが起きていて、あちこちから楽しそうな近況報告があるたびに「そのうちに行くから」と全て先送りにしていたのだが、韓さんからの件は特別だった。
 「え、対馬ですか?! びっくりです。すごいです。感動しました。遊びに行ってもいいですか?」
 社交辞令などではない、本気でびっくりして感動していた。愛知県で韓国語教材の書店をやっていた彼が、今は対馬で暮らしている。私はこういう行動力には無性に感動するのだ。
 とはいえ、何があったのだろう?
 すぐに思い出したのは、やはり金達寿の『対馬まで』だった。在日3世の韓さんも、やはり故郷が見える丘に上がろうとしたのか。でも今はそんな時代ではない。後述するように、韓さんにも韓国に行けない時期があったけれど、今はしょっちゅう家族で韓国旅行を楽しんでいる。
 では、どうして対馬に? その理由は意外だった。

国境の島
 船が対馬に近づくと、スマホが使えるようになる。先に到着しているキム・スンボクさんと韓さんの両方からメッセージが入っていた。二人は比田勝港から南下して厳原港で待っているという。
 対馬は上対馬と下対馬の上下に分かれており、現在は釜山から上対馬の比田勝港に、福岡から下対馬の厳原港に高速船が着く。対の島だから対馬なのか? と思っていたのだけれど、対馬は「馬」であって「島」ではない。
 この「馬」は古代朝鮮の「馬韓」だとか、韓国の「馬山」らしいという説も聞いたけれど、そもそもは『魏志倭人伝』を書いた中国人による当て字だったという話に感動した。当時の倭人たちは文字を持たなかったため、現地の発音に適当な漢字を当てはめたのではないかという。
 対馬は古代から東アジアの重要なスポットであり、早い時期から「国境の島」として国際関係の激動を体験することになる。

 「7世紀の白村江の戦いによりほぼ国境が確定し、日本・新羅・唐という国家が成立したことにより、「国境の島」は常に国家間の緊張関係の最前線にさらされることになりました。」 (対馬観光物産協会ウェブサイトより)

 その対馬に移住した韓さんから新しい名刺をもらって、肩書にびっくりした。

 「農民 韓基徳」

 海辺で韓国人観光客相手の民宿でもやるのかと思っていたのに、そうではなかった。そして案内された彼の新居というのは、港から離れた山の中にあった。暗い森をいくつか抜けた先に、見えてきたのは小さな平屋の家。
 「わーい! ぽつんと一軒家ですねー」
 スンボクさんが歓声をあげた。そのタイトルの番組のファンだという。まさに、「ポツンと一軒家」の前には梨畑があり、そこが彼の農地だった。
 「ずっと農業がやりたかったんです」

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