移動する人びと、刻まれた記憶

第2話 国境の島の梨畑①
――対馬に移住した韓さんの話(前半)

韓国から、世界へ。世界から、韓国へ。人が激しく移動する現代において、韓国の人びとはどのように生きてきたのか? 韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載第2話は、対馬に移住した韓さんの話。今回は、その前半をお届けします。

「光州事件」が結びつけた民族運動と市民運動
 韓国での正式名称は「5・18光州民主化運動」であるが、当時の日本ではやはり「事件」だった。デモが警察機動隊に弾圧されるのは、日本でも労働争議や安保闘争で経験したことだった。でも都市を封鎖した軍隊が自国民に向けて実弾を発砲するとは、まさに想像を絶する事態だった。
 日本で最初に抗議の声をあげたのは在日の若者たちだった。「在日韓国青年同盟」(韓青)のメンバーたちは軍による鎮圧が始まると、犠牲者追悼集会を行った後に在日韓国大使館に向けて抗議行動を行った。また事件に関連して金大中に死刑判決が下されると、日本の文化人や政治家を巻き込んで運動はさらに大きくなった。
 「金大中氏を殺すな」は、光州市民への連帯を象徴するスローガンだった。
 韓さんも当時は「韓青」のメンバーの一人だった。大学内ではなんと2万5000筆の署名が集まったという。当時、北大の学生数は大学院を合わせて1万5000人ほど。家に持ち帰って署名を集めてきてくれた人たちもいたのだろう。
 「学生も教授も協力してくれた。日本人は運動にとても好意的だったよね。街頭でもカンパがたくさん集まった」

金大中救出運動の勝利
 日本・アメリカ・ドイツなどの各国で韓国系住民を中心に「金大中救出運動」は広がり、それが各国政府やローマ教皇までを動かすことになった。軍服を脱いで大統領になった全斗煥はその圧力に耐えきれず、1981年1月には死刑を無期懲役に減刑した。
 韓さんが札幌の区役所で指紋押捺拒否をしたのは、ちょうどその時期である。
 そして82年の年末に、金大中氏は米国への出国(事実上の追放)を条件に釈放される。
 「金大中救出」は成功したのである。
 金大中氏は大統領就任後に日本を訪れた際の国会演説で、自分が生きて活動できる喜び、そのために努力してくれた日本国民とメディア、日本政府への感謝の言葉を述べた。救出運動に尽力した与野党の国会議員の中には、これを聞いて涙を浮かべた人もいたという。
 金大中救出運動と指紋押捺拒否運動は連動していたと思う。当事者である在日の人々だけでなく、「その他大勢」の日本人もまた光州市民の勇気に突き動かされた。そして重要なのは金大中救出も指紋押捺拒否も結果を出したことだ。私たちには二つの勝利体験がある。

海から見た釜山の山
 「それまでもね、在日と日本人が一緒にした運動はあったんですよ。差別反対運動とか。でも僕は日本人の同情を買うような運動は、情けなくて嫌だった。自分にとって大切だったのは民族意識とプライド。韓国の民主化と朝鮮半島の統一に積極的に貢献したいと思っていた」
 当時、「韓青」には韓さんのような若者が集っていた。
 1970年代後半、在日社会は日本生まれ2・3世に代替わりしていたが、今からは想像もできないようなひどい差別があった。ソフトバンクの孫正義さん(66)は韓さんと同世代だが、「小学校、中学校の時は本気で自殺しようかと思ったぐらい悩んだ」とインタビューなどで振り返っている。そこから抜け出して16歳でアメリカに渡った孫さんは、日本に戻った後に「安本」という通名を捨てて、「孫」という先祖代々の韓国名で成功することで、差別社会を突き抜けようと決意する。(大西孝弘「孫正義氏「自殺しようかと思うぐらい悩んだ。差別はつらい」日経ビジネス電子版https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/052400004)
 韓さんも同じだった。大学に入ると同時に、外国人登録証の通名欄を抹消して、「韓」という名字だけで生きることにした。そして1978年、民族団体主催の夏期学校で初めて韓国を訪れる。
 「下関から船に乗って玄海灘を渡りました。遠くに釜山の山が見えた時には涙が止まらなかった」
 祖父や祖母がここから日本にやってきた。ここにちゃんと祖国がある。ところが韓さんは、この後、長い間、韓国に行けなくなってしまうのである。 

(後半につづく)

 

関連書籍