移動する人びと、刻まれた記憶

第2話 国境の島の梨畑①
――対馬に移住した韓さんの話(前半)

韓国から、世界へ。世界から、韓国へ。人が激しく移動する現代において、韓国の人びとはどのように生きてきたのか? 韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載第2話は、対馬に移住した韓さんの話。今回は、その前半をお届けします。

指紋押捺拒否運動のヒーロー
 韓さんに最初に会ったのは今から40年近く前、「指紋押捺拒否運動」が全国的に拡大していた頃だ。北大の学生だった韓さんは1982年1月に札幌市の区役所で押捺を拒否。刑事告発され、名古屋の実家に戻った後の83年9月、外国人登録法違反の罪で在宅起訴された。
 84年2月に名古屋地裁で公判が始まり、愛知県でも支援グループが結成された。その懇談会で隣に座っていた彼のことを、とてもよく覚えている。ところが彼のほうは地元の大学生だった私のことなど、まるっきり記憶していなかった。
 「あの頃は全国を飛び回っていたからね。北海道では一人目の拒否者だったから、新聞に大きく載っちゃって、まるでヒーロー扱いだったから」
 若くて弁舌が立つ韓さんは、日本全国に広がった運動を牽引する一人だった。
 「私はその他大勢だったから(笑)」
 それはいい意味で本当のことだった。あのときは日本全国で指紋押捺拒否者が出るたびに、その地域ですぐさま「◯◯◯さんを支援する会」が結成された。「その他大勢の日本人」も頑張ったのだ。
 「僕のところは支援じゃなかった。韓君とともに在日外国人の指紋押捺を廃止させる会」
 「たしかに。あれは日本の市民運動の金字塔だと思っています。だって外国人登録法の改正にもっていったんですから。外国籍の住民と日本人が共に闘って。私にとってあの勝利体験は大きかった」
 「そうだよね。すごい運動だったと思う。僕たちも人生を賭けてやったわけだし、日本の人たちも一緒に頑張った」
 「他の外国人も合流しましたよね。ステファニーさんとか。彼らだって在留資格を賭けてやったわけですから」
 ステファニーさんとは名古屋にいたイタリア人の神父さんで、自らも指紋押捺拒否をして運動を支援した。彼以外にも中国や台湾、アメリカやカナダなど様々な国籍の在日外国人がいた。当時は実感しなかったけど、私も韓国で外国人として暮らして、居住国の法制度と闘うことの恐ろしさと、外国籍住民の無力さを知った。それを越えて闘った人たちの勇気に今さらながら驚かされる。
 「全国的な運動になったけど、最初はみんな一人だった。僕も誰にも相談せずに一人で決めて押捺拒否をした」

一人から始まった、非暴力不服従
 運動は1980年9月、東京で暮らす在日韓国人1世の韓宗碩さん(故人)から始まった。外国籍だというだけの理由で、まるで犯罪者のように指紋を取られる屈辱。それは人権侵害であり不当な差別だとして、押捺を拒むことで制度撤廃を訴えた。
 制度が始まったのは1955年からだ。植民地時代に「日本人」とされた人々が、戦後は「外国人」にされた。そして3年毎に指紋をとられる。これは日本も批准を控えていた国際人権規約などにも明らかに違反していた。
 韓宗碩さんが始めた運動に多くの人が続いた。やがて拒否者・留保者の数は1万人を超し、制度は93年に永住者について撤廃され、2000年に全廃された。
 法制度を変えるための非暴力・不服従運動というものは、外国の例などで知ってはいた。でも日本でそれを見たのは、この時が初めてだった。
 「押しません」 
 という一言。韓基徳さんの気持ちが決まったのは1981年1月、当時まだ14歳だった崔善恵さんが押捺拒否をしたことを知った時だった。
 「あんな小さな子が自分の意志を貫いているのに、俺は今まで何をしてたんだ」
 それともう一つ、韓さんの背中を押した理由があった。
 「光州事件です。韓国では自分と同じ大学生や市民が、命がけで独裁政権と闘っていた。そのことが自分にものすごい勇気を与えたんです」
 1980年5月、韓国の光州市では民主化を求める学生と市民に対し、全斗煥政権は軍を投入して暴力的に弾圧した。光州市は軍によって完全に封鎖され、国内では凄まじい報道管制が敷かれたが、日本では大きなニュースとして報道されていた。

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