凱旋の初舞台は日本だった
彼が再び韓国で活動するきっかけを作ったのは、日本の人びとだった。その時の感動を彼は著書に、多くのページを割いて書いている。ハン・デス復活の狼煙(のろし)として、今や韓国の関係者の間で伝説化した「カルメン・マキ&ハン・デス ジョイントライブ」は、1997年秋に福岡で開催された。
「なぜ私なんですか? ソン・チャンシクやキム・ミンギやシン・ジュンヒョンも、ヤン・ヒウンもいるのに……」
ハン・デスは本当に驚いたという。余りも突然の誘いに困惑した彼は、これは何かの間違いに決まっていると、何度も誘いを断ろうとした。大金をふっかければ諦めるんじゃないかと、バンドメンバーを捏造して途方もないギャラを要求してみたともいう。
「ところが彼女は諦めなかった。どこまでも親切で礼儀正しく……」(『俺は幸福の国へ行く』)
ハン・デス復活の立役者は「彼女」、作家の姜信子さんである。ハン・デスの文章からは、彼女の熱意と誠意が伝わってくる。両者の間のFAX等によるやり取りは7ヶ月間で300通にも及んだという。そのうちの一通が姜信子さんの著書『日韓音楽ノート――〈越境〉する旅人の歌を追って』(1998年、岩波新書)のエピローグに、「旅する音楽詩人への手紙」として収録されている。
「風に吹かれるのではなく、風そのものになって『空の雲を追い、あてのない旅をする人生は僕』(『風と僕』)と歌とあなたとともに立ちあらわれる『乱場』。そこは越境の旅を行く者たちが足を休めて旅の記憶を語りだす、つかの間の、この世に出現する辻なのです」
幻のミュージシャン
その頃、私はソウルにいて、周囲でハン・デスの話が立ち上がるのを聞いていた。日本の公演後に彼は韓国を訪れて、メディアに取り囲まれた。翌1998年には自伝的エッセイ『水をくれ、のどが渇いた』が出版されて大きな話題となり、私は日本向けの記事にそれを書いたのを覚えている。
ただ私も韓国の同世代と同じく、80年代に聞いた「幸福の国へ」はヤン・ヒウンが歌ったものだったし、「風と僕」はキム・ミンギの歌だと思っていた。当時、日本で自主制作された『金冠のイエス』というアルバムには、作詞作曲ハン・デスと名前が入っていたけれど、本人については何も知らなかった。
「彼は幻のミュージシャンでしたからね。姜信子さんも彼を探し出すのに本当に苦労していました」
そう話してくれたのは、ハン・デスさんが最も信頼する日本のミュージシャンの一人、ハチさんこと春日博文さんだ。カルメン・マキ&OZのリーダーだったハチさんは、ハン・デスの日本初公演のしょっぱなから彼を驚かした。
「ハチは韓国の『唱』も知っていたし、恐ろしいほどチャングやケンガリが上手かった」(『俺は幸福の国へ行く』)
ハチさんは1987年に韓国に渡り、1年余り伝統打楽器の修行をしたことがあった。ハン・デスはそれに大感動して著作の中で、日本人の他国文化への好奇心と畏敬をポルトガルからの鉄砲伝来に結びつけるという、かなり大振りな絶賛をしている。ハチさんは我々にとっても先駆者であり、彼について書きたいことも多いのだけれど、ここは先に進む。
そうだ、我々にはハン・デスがいた!
1999年に行われた『韓国フォーク30周年フェスティバル』は、まさにハン・デスの凱旋コンサートだった。韓国のフォークソングが産声を上げたのは1969年に行われた彼の「初リサイタル」だったが、それから30年目にしてようやく韓国の人びとは、「あの伝説のミュージシャン」が実際に歌う姿を見ることができたのだ。
「そうだ、我々にはハン・デスがいた!」
「ハン・デスが戻ってきてくれて本当に嬉しい」
みんなが喜んでいた。その頃の韓国といえば、IMF管理下で経済的にとても厳しい時代だった。苦痛の時代を生きる人びとにとって、ハン・デスの帰還は大きな励ましとなった。
ただハン・デスにとっては、いささかアイロニカルでもあった。あの情熱あふれた若い時代に、なぜこれができなかったのか?
長い不在の間も、彼は故郷や音楽を忘れたわけではなかった。ニューヨークの写真スタジオで仕事をする傍ら、1989年以降連続してアルバムを発表したが、韓国ではほとんど話題になることがなかった。後になって「韓国の大衆音楽ベスト100」に選ばれた『無限大 INFINITY』(1989年)という名盤も、発表当時は全く関心を持たれなかったという。
彼は懐メロのようにフォークソングを歌う人ではなかった。いつだってアバンギャルドで、自由に向かってシャウトする。彼の「復活」を歓迎したのは昔を懐かしむ人びとよりも、むしろ下の世代だった。
「ハン・デスは永遠のヒッピーなのです」
彼を知る人びとは、必ずと言っていいほどそんな表現をする。