移動する人びと、刻まれた記憶

第5話 「幸福の国」を探す②

韓国フォークの開拓者、ハン・デスの旅(後半)

韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載第5話後篇です。フォーク・シンガー、ハン・デスの韓国へのカムバックのいきさつ、妻オクサナさんのこと。ぜひお読みください。

戦争に反対する No War
 写真集『生きるという苦しみ』の、最後の章タイトルは「No War」である。
 「STOP DROPPING BOMBS(爆弾を落とすな)」という手書きのプラカードをもった少女は、意志の強そうな目でカメラを見据えている。コカ・コーラをもった小さな女の子と若い母親、「PEACE(平和)」と書かれた赤い風船。キャプションはすべて「ニューヨーク、1967」である。
 そこから写真は「ニューヨーク、2003」のイラク攻撃反対集会へと続く。男の背中に貼られた「NO WAR(戦争反対)」という大きな文字、隣の赤いヤッケを着た子どもがこちらを見ている。グレーヘアの中高年も目立つ。その人たちは1967年の写真の中にもいたのかもしれない。
 巻末のエッセイには、「終わらない戦争」への憤りがある。それは「今に始まったことではない」として、米国との戦争で降伏を拒んだ日本が、若者たちに片道分の燃料だけを持たせて自爆させた「カミカゼ特攻隊」から、原爆、ベトナム戦争、アフガニスタンやイラク、そして現在進行系のロシアとウクライナの戦争へと続く。
 日韓を行き来しながら強く感じるのは、韓国での戦争報道の少なさだ。現地に行くジャーナリストもいないし、戦争について発言する人も少ない。でも、ハン・デスがいた。このエッセイが書かれた時にはまだ、2023年秋に始まるイスラエルによるガザでの虐殺は起きていなかったが、彼なら絶対に見過ごさないだろう。
 1999年に米国でリリースされた彼の7番目のアルバム『理性の時代、反逆の時代 Age of Reason, Age of Treason』(1999年)には、彼を知るうえでとても重要な2曲、「No Religion」と「Blood」が収録されている。どちらも明確な「反戦ソング」である。
 前者はパレスチナとイスラエルの戦争で犠牲になった子どもたちを思って、後者の原曲はキノーの「группа крови(Blood Type)」、ヴィクトル・ツォイ(第3話参照)がアフガン戦争に送られる兵士について歌ったものだ。
 ハン・デスがヴィクトル・ツォイについて知ったのは1992年、再婚したばかりの妻オクサナさんの故郷であるロシアを訪問した折だった。すでにツォイはこの世を去った後だったが、モスクワのアルバート通りでは、若者たちがギターを弾いて彼の歌をうたっていた。ハン・デスは彼のCDを買い集めて、韓国にいる知り合いのテレビディレクターにすぐに連絡をしたという。
 「Blood」の後半にあるロシア語の部分には、オクサナさんの声が一緒に録音されている。

モンゴル系ロシア人の妻、オクサナ
 ハン・デスが妻と一緒に韓国に引っ越してきたのは2004年である。私の家からは歩いていける距離であり、よく近所で彼を見かけた。07年には子どもも生まれて、彼は幼い娘を連れてスーパーで買い物などもしていた。
 「先生、お子さん大きくなりましたね」
 「やんちゃで大変です」
 走り回る子どもを追いかける彼は普通のお父さんだったが、私たちは彼がとても大変な状況にあることを知っていた。その頃、彼の妻は心の病にあって、苦悩する夫婦の様子はテレビのドキュメンタリーでも放映されていた。今は三人でニューヨークに戻って暮らしている。
 最後にオクサナさんのことを少し書いておきたい。
 オクサナさんの祖父はモンゴル人で、建築の勉強のためにウランバートルからモスクワに留学していた。ところが1941年に独ソ戦が始まると、シベリアに送られて強制労働を強いられる。そこで同じように労働を強いられていたウクライナ人の女性と知り合って結婚する。それがオクサナさんの祖母である。
 第2次世界大戦が終わると、二人はウランバートルに戻り、祖父は建築家としての仕事につく。モンゴルで最初の西洋建築物であるウランバートルホテルは彼が建てたものだという。国家のエリート階層にあった彼らは、二人の子どもをソ連に留学させる。そのうちの一人がオクサナさんの母親だ。彼女はモスクワで出会ったロシア人の科学者と結婚し、オクサナさんが生まれた。
 ところがソ連当局はある日、その母親が「反ソビエト活動をした」という嫌疑をもって、彼女から娘を引き離そうとした。母親は最後まで抵抗して娘を渡さなかったが、このことはオクサナさんに大きなトラウマになったという。ペレストロイカでソ連の矛盾が明らかになっていった時、オクサナさんは勇気を振り絞ってモスクワの米国大使館に亡命申請した。オクサナさんがニューヨークに亡命をしたのは1991年8月、ソ連でクーデターが起こる直前だった。
 韓国ではオクサナさんは「ハン・デスの妻」として語られることが多い。だが、モンゴルやロシアやウクライナの人から見たら、ハン・デスが「オクサナの夫」なのかもしれない。そこでは、どんな物語が語られるだろうか。それはどんなふうに書かれるのだろうか。私はそれを書けないだろうか。この連載を続けながら、ずっと「彼らの妻たち」のことを考えている。

関連書籍

伊東 順子

韓国 現地からの報告 (ちくま新書)

筑摩書房

¥968

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入

中くらいの友だち編集部

中くらいの友だちVol.13

皓星社

¥1,320

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入