資本主義の〈その先〉に

第23回 資本主義の思弁的同一性 part3

3 二つの千年王国論

 

二つの千年王国論

 

 キリスト教の文脈では、神義論に最も深く関わるのは、終末における救済と呪いである。人間の行為が、「神の国における永遠の生」(あるいは「地獄での永遠の責苦」)として描かれる救済(あるいは呪い)にどのような影響を与えるのか/与えないのかが、神義論で問われている。この救済は、死後に、この世界の終末の後に訪れる。しかし、これでは、生きている間には、あるいは人類の歴史の中では、救済はやってこないことになる。そうした不満に応ずるかのように、キリスト教には、地上における救済を説く教義が用意されている。それが千年王国論である。

 千年王国論の内容はあいまいだが、おおむね次のような筋でイメージされている(1)。まず、あるとき、ほんものの信仰者に聖霊が降り注ぐ。これこそ、キリスト再臨の予兆である。これとともに、背信の徒、不信心者、異教徒の、真のキリスト教信仰者への迫害や攻撃は激しいものになる。戦争や内乱、あるいは自然災害による飢饉、疫病などが起きる、地獄と見まごうばかりの悲惨な状況になる。このあと、預言者が現れ、キリスト(メシア)がいつどこに来臨するかを人々に告知する。これで、信仰者たちはメシア来臨が切迫しているのを知り、迫害をものともせずに、来臨の場所へと向かう。ついに、預言にあった、まさにその時、その場所に、キリストが降りてくる。雲に乗って、とされている。キリストは、アンチキリストに率いられた不信心者の軍団を撃滅する。

 このあとが、千年王国の時代である。キリスト自身が、信者たちとともに統治する王国が出現する。重要なことは、これが、地上の王国だということだ。つまり、これは、この地上の世界に実現した天国(神の国)である。イスラエル王国の栄華の絶頂期だったソロモン王の宮殿よりも麗しく、ライオンが人を食わずに草を食し、子どもをその背に乗せて戯れる、等と、その楽園の様子が記述されている。この状況は千年間続く。

 しかし、楽園の千年が経過した後に、地獄に拘束されていた悪魔たちが、封印を解いて復活する。キリストは、これを返り討ちにして、最終的に悪魔たちを葬り去る。この後に、最後の審判がなされる。すなわち、これまで地上に生きたすべての人々が復活し、神が主宰する法廷で、救済か呪いかの判定を受けるのである。

 これが、千年王国論が描く基本的なプロットである。ただちに理解できるだろう。千年王国の到来とは、終末に先立つ終末である、と。ほんとうの終末の前に、暫定的な終末がやってくるのだ。千年王国は、先取りされた神の国、考えようによっては、神の国のまがい物である。

 そうだとすると、千年王国論は、純粋な終末論にとっては冗長な付属品ではないか。こんなものは、本来はなくてもよいのではないか。いや、終末論の論理に真に忠実であるならば、千年王国はあるべきではない、と言ってもよいのではないか。どうして、キリスト教の終末論に、千年王国論のようなものが含まれているのか。

 千年王国論には、終末論に即した論理的な必然性はない。しかし、このようなものが生み出される心理的なメカニズムであれば、想像するのは難しくはない。真の救済が、終末の後に置かれる、とする(実際、そのように教えられる)。しかし、終末の後の救済は、ほんとうの救済であろうか。終末時の審判によって、救済の可否が決定されるということは、言い換えれば、地上においては救済されないということである。救済への期待を、あるいは呪われることの予期を、実効的なものにするためには、つまり、救済を真にありがたみのあるものに、呪いを真に恐ろしいものにするためには、救済/呪いを決定する「終末」を、真の終末の前に起き、地上の時間の中に組み込まなくてはならない。こうして、終末が二段構えになるような教義、つまり千年王国論が編み出されることになったのではないか。

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