資本主義の〈その先〉に

第23回 資本主義の思弁的同一性 part3

3 二つの千年王国論

 ここで千年王国論を紹介したのは、しかし、なぜこのような(終末論にとって)一見冗長な教義が生まれたのかを考察するためではない。キリスト教が、ヨーロッパからアメリカへと移植されたとき、千年王国論に顕著な変化が生ずる。これが、ここでの主題である。

 どこに変化が生じたのか。キリスト再臨のタイミングである。普通の千年王国論では、今しがた紹介したように、キリストが降臨し、背信的な輩を撃破することで、千年王国が始まる。つまり、千年王国が実現する前に、キリストはやってくる。千年王国はキリストによって統治されることになっているのだから、当然のことである。ところが、アメリカに入植したキリスト教徒の間で主流になった千年王国論では、そうではない。キリストは、千年王国という黄金時代に入り、それが繁栄の頂点に達した頃に、再臨する。アメリカで一般化したヴァージョンでは、千年王国の実現のあとにキリストが到来するのだ。だから、これを「後千年王国主義Postmillennialism」と呼ぶ。これとの対比で、通常の千年王国論は、「前千年王国主義Premillennialism」と呼ばれている。

 キリストがやってくるタイミングが違うから何だというのか。この違いは、宇宙論の決定的な相違を反映している。通常の千年王国論、つまり前千年王国主義では、千年王国をもたらすのは、人間ではなくキリストである。原理的には、千年王国の実現は、人間の主体的努力や意志とは関係がない。キリストが、人間の求めとは関係なく勝手にやってきて、アンチキリストを倒すのである。ヨーロッパでは、15世紀から16世紀にかけて、(前)千年王国論を信じる者たちによる反乱や社会運動が、いくつも起きている。フス戦争(1419-36)において最もラディカルだったとされるターボル派や、あるいはドイツ農民戦争(1524-25)のトマス・ミュンツァー、ミュンスターの反乱(1534-35)における再洗礼派などが、そうである。彼らはすべて、千年王国を建設する真の主体はキリストであると考えており、自分たちは、それを補佐する協力者に過ぎないと見なしていた(2)

 だが、後千年王国主義では事情はまったく異なっている。人間が自分自身で主体的に千年王国を実現しなくてはならない。言い換えれば、千年王国は、人間の決断と努力によって建設可能だと見なされていることになる。

 この事実と相関して、歴史的な時間の感覚が、前千年王国主義と後千年王国主義ではまったく異なってくる。本来の千年王国論、つまり前千年王国主義においては、キリストが、突如として、超越的な場所から到来するので、この瞬間に、時間に質的な断絶が生ずる。それに対して、後千年王国主義では、地上における人間の継続的な努力の産物として、漸次的に千年王国は建設されるのだから、歴史的な時間に、質的な断絶が入るわけではない。先ほど、千年王国の到来とは、終末に先立つ終末であり、終末へと至る歴史的な時間そのものの中に入り込んだ擬似終末であると述べた。このような特徴づけがよく妥当するのは、前千年王国主義の方である。後千年王国主義では、千年王国の実現も、またその後のキリストの再臨ですら、「終末」に比せられる断絶をもたらすことはないからだ。

 ところで、われわれの問いは、アメリカで、苦難の神義論の極点から幸福の神義論の極点への圧倒的な反転が生じたのはどうしてなのか、であった。千年王国論における、今見たような変化は、こうした反転の兆候と解釈することができるだろう。後千年王国主義は、通常の千年王国主義よりも、幸福の神義論に親和的だからだ。後千年王国主義は、千年王国というユートピア的な時代が、人間の意志や努力の結果として、つまりそれらのものへの報酬としてもたらされうる、ということを前提にしているからだ。それに対して、千年王国の本来のヴァージョンでは、人間の行為や努力や決断とは究極的には無関係に、千年王国は実現する。

 

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