妄想古典教室

第二回 そのエロは誰のものか
現存最古のエロティカ

神秘の「小柴垣草紙」

「小柴垣草紙」は、江戸時代の写本によると、寛和2(986)年に実際に起こった伊勢の斎宮の密通事件を下敷きにしている。

 伊勢神宮に斎宮として勤める女君は、未婚の皇女から選ばれるのだが、寛和2年に斎宮に卜定されたのは、醍醐天皇の孫で章明親王の娘、済子(なりこ)女王であった。斎宮に選ばれると、伊勢に下向する前に、一年間、京都の野宮神社にて潔斎のときを過ごす。未婚でなければならないのだから、斎宮に男性関係があってはならない。ところが、野宮神社の警護にあたっていた滝口の武士、平致光(たいらのむねみつ)と関係し、済子女王の伊勢行きは中止となり、またこの事件をきっかけに警護として滝口の武士を置くことを廃止したという。

 この事件を説話集『十訓抄』(1252)で確認しておくと、次のようにある。

 

寛和の斎宮、野宮におはしけるに、公役滝口平致光とかやいひけるものに名立ち給ひて、群行もなくて、すたれ給ひけり。
それより野宮の公役はとどまりにける。(『十訓抄』中 五ノ十)

 

 男性との性的関係を排した暮らしを強いられる斎宮は、逆に男にとっては絶対の禁忌として、ぜひとも関係してみたい女の筆頭となるわけで、女ばかりの暮らしのなかでどんなにか男との性的関係に飢えているかと妄想させるのである。となれば、斎宮密通の物語が世にあふれるのもこれ必定ということになる。

「小柴垣草紙」にはおびただしい写本があって、せっせと増殖されてきた痕跡が明らかなのだが、一方で、鎌倉時代の作品については、現存するにもかかわらず未だに神秘のヴェールに包まれている。出光美術館に鎌倉時代の一本の所蔵が確認されるものの、図録に載る巻頭場面のみが知られるばかりである。

 その他、2015年秋に永青文庫で開催された春画展に鎌倉時代の作が一本出品され、図録に二図を載せている。ただし所蔵者は明らかにされていない。春画展出品の一本は、出光美術館本と同様、詞書三段に絵が十段だそうで、構成が一致しているわけだが、いったいこれが出光美術館本とは別の一本なのか、はたまた同じものなのかは確認できない。つまり、この世に鎌倉時代の「小柴垣草紙」が二本あるのか、あるいは一本しかないのかがわかっていないのが現状である。そういうわけで「小柴垣草紙」はまさに妄想力を十全に駆り出さねば論じられない難物なのである。

 実態が明らかにならないのは、所蔵者がそれを秘匿しているからであり、そもそも肉筆春画とは、そのように厳重にアクセス権を管理し、見る者の特権を確保した上でありがたがるものであるのである。

 江戸時代の写本を含めて、「小柴垣草紙」には男女の逢瀬が一夜限りのものと再訪するものとの二種類の系統がある。井黒佳穂子「『小柴垣草紙』の変遷」(『テキストとイメージの交響――物語性の構築をみる』(新典社、2015年)の整理にならっていえば、逢瀬が一度のものは詞書が三段から五段で構成される「短文系」であり、二度の逢瀬を語るものは、別名に「灌頂絵巻」と呼ばれるものも含め十一段から十三段の詞書をもつ「長文系」である。長文系の冒頭には、次のようにあって、実在の事件を下敷きにして語りはじめている。

 

寛和の頃滝口平致光とて聞えある美男、ならびなき好色あり。見る人恋にしづみ、聞く者思ひをかけぬはなかりけり。斎宮、野宮におはしましける公役に参りたるを、御簾の中より御覧じければ、見目有さま、所のしなじなすきて、はれやかなる姿、世の人に勝れて見えけるを、男の影さす事もまれなるに、たまたま御覧じける御心のうち、いかが思しめしけむ。(林美一、リチャード・レイン『定本浮世絵春画名品集成17 秘画絵巻【小柴垣草子】』河出書房新社、1997年。適宜表記を改めた。)

 

 ところが、鎌倉時代の作である出光美術館本の冒頭には、この段はなく、長文系の第二段にあたるところからはじまっている。短文系が先に成立したと推定されているから、物語はもともと実在の事件とは無関係に、アノニマスな斎宮と滝口の武士との関係を描こうとしていたのであり、読者は、実在の事件よりもむしろ『伊勢物語』を想起して読んだに違いない。詞書五段を有する短文系の江戸の写本では、最後に「このこと世に漏れきこえけるゆへに、寛和二年六月十九日に伊勢の御くだりとどまりて、野宮よりかへり給ひけり」と寛和の斎宮の事件を扱っていることを明かすのだが、この暴露の方法自体、『伊勢物語』のやり方によく似ている。

『伊勢物語』は『源氏物語』と並んで、土佐派、狩野派、琳派の美術品にくり返し取り上げられ、安土桃山時代から江戸時代に至るまで常に馴染みのある主題だった。『伊勢物語』は、后や斎宮との密通などあれこれ禁忌の恋を描いたことで知られるが、六九段「狩の使」の章段に、伊勢の国で斎宮と関係する男が登場する。やはり物語の最後に「斎宮は水の尾の御時、文徳天皇の御女、惟喬の親王の妹」と明かして、恬子(やすこ)内親王のこととして実在の人物に結び付けている。

『伊勢物語』と短文系「小柴垣草紙」の双方の斎宮密通物語に共通するのは、女のほうが誘いかけている点である。『伊勢物語』では、女は親に言われたとおりに、この使を懇ろにもてなしていたのだが、ある晩、男に「逢おう」(あはむ)と言われて、女は逢わないとは思っておらないものの(あはじとも思へらず)、しかし人目が多くてなかなか逢えそうになかった。皆が寝静まった真夜中、女は「男のもとに来たりけり」というので、「男、いとうれしくて」、迎え入れるが、丑三つ時に女は帰っていってしまった。そこで、かの有名な歌が女から贈られてくるのである。

 

君や来しわれやゆきけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか

(あなたが来たのでしょうか。私が行ったのでしょうか。よくわからないのです、夢なのか現実なのか、眠っていたのか目覚めていたのか)

 

 男の返し。

 

かきくらす心のやみにまどひにき夢うつつとは今宵さだめよ

(悲しみにくれて真っ暗な心の闇をさまよっています。夢だったのか現実だったのかは今宵、見定めてください)(『伊勢物語』六九段)

 

 男女の逢瀬というものは、男が女の元へ通い、翌朝、男が女の元へ後朝(きぬぎぬ)の歌を贈るのが通例である。ここでは、それが逆転していて、女が男を訪ね、女の方から歌を贈っているのである。男女の役割をひっくり返して、わかりやすくもあからさまに斎宮の積極的な性を描いているわけである。

 男は、今宵また逢おうというつもりで返歌をおくったが、二度目の逢瀬はないままに尾張の国に旅立って行った。ただ一度の逢瀬を描いた「小柴垣草紙」の短文系の構成と実によく似ている。

 ところで『伊勢物語』「狩の使」章段で、男はなぜ尾張の国に向かったのだろう。本橋裕美『斎宮の文学史』(翰林書房、2016年)は、この章段に、ヤマトタケルの神話を読み込んで「日本武尊と倭姫命の密かな逢瀬を幻視し、狩の使章段に重ねてみる時、(中略)不遇の貴種を連想させるのである」と指摘している。

『日本書紀』の蝦夷征討譚で、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、伊勢神宮に立ち寄り、倭姫命(やまとひめのみこと)に草薙の剣を与えられたとする挿話がある。伊勢の霊力を味方につけて蝦夷を征したのち、日本武尊は尾張国で尾張氏の娘を娶っている。『伊勢物語』は伊勢での逢瀬を描くから、なるほど伊勢に倭姫命を訪ねた『日本書紀』の挿話を想起させる。

ただし、「小柴垣草紙」の場合は、伊勢に下向する前の、野宮神社での逢瀬を描いているのだから、ここにはもう一つ別の挿話が呼びこまれてこなければならない。

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