藪前知子

⑦ 異物を街に残すために

アートとは何か、アートは社会とどう関われるか。気鋭のキュレーターがアートの役割を根源から問いなおす、コラム連載第7回。

異質なもの、理解できないものと出会う機会

これまで、アートが美術館の中だけで存在するのではなく、地域やコミュニティの中へと出て行く可能性についてあれこれ考えてきた。その動機について問いかけたとき、これまでたくさんのプロジェクトを手がけてきたある人が、こう答えていたのを思い出している。「まちのなかで、そこにいる人たちに、異質なもの、理解できないものと出会う機会を作りたい。そういうことがどんどん無くなって行く世の中だから」。

例えば、先ごろ終了した、岡山市内の各所を使った大規模なアートプロジェクト「岡山藝術交流」で、多くの観客が最初に出会うのは、銀色の巨大な塊が駐車場に突っ込んでいるというもの。ライアン・ガンダーという人気アーティストの《編集は高くつくので》という作品だ。1920年前後の「デ・ステイル」のファントンヘルローの作品が、この地に隕石として落下した、という設定なのだそうだが、異なる時空に属していたものが日常に突然挿入される経験をうたったこの作品は、アートが地域にもたらすものとは何かを端的に示しているといえる。

あるいはその同じ頃、東京では、都市空間に介入して数々のプロジェクトを展開してきたアート集団CHIM↑POMが、巨大な展示空間を新宿歌舞伎町の廃ビルに出現させ、大きな話題を呼んでいた。入場の際に、自己の責任の元にこの空間に入るという誓約書にサインして、最初に目にするのは、空間のど真ん中にぽっかりと空いた巨大な穴。覗き込むと階下のフロアがぶち抜かれており、足がすくむような光景が広がっている。私が訪れた日は大雨が降っており、床が滑る危険から急遽柵がつけられていたが、他の日は危険防止の手立てはされていないとのことだった。事故直後に煙立ち上る福島第一原発の至近距離で撮影した《Real times》という作品に代表されるように、CHIM↑POMはこれまで、自らの身体をもってその現場に介入し、その場所を私たちの眼前に転送することで、リアリティーを共有するアートの力を拡張してきた。今回の彼らの実践は、歌舞伎町という現場に観客の身体を招き入れ、その空間の強度を増幅させつつ、この街の歴史、そしてそこから照射される「現在」を強烈に体感させる、長く語り継がれるだろうものとなった。

 

東京デザイナーズウィークの事件を巡って

ところで、この展覧会の会期が、あと一週間長かったとしたら。記憶に残るあの光景は、多少なりとも異なるものになったのではないかと、今振り返って考える。歌舞伎町に入場を待つ人たちの長い長い列ができた一週間後、アートに関わる者全てがその立場を試されるような痛ましい事件が起こった。東京デザイナーズウィークというイベントで、ある大学の建築科研究室の学生たちが制作した、カンナ屑を詰め込んだ木枠をジャングルジム型に組んだ作品が、中に設置された照明の熱で発火、遊んでいた5歳の男の子が亡くなった。私にも同じ年の息子がおり、こうしたイベントによく子どもを参加させる親としても、喪われたご家族の悲しみはいかばかりかと、胸が張り裂ける思いでニュースの第一報を聞いた。

しかしその後はやはり、アートの現場に関わる人間として、この事件が頭を離れない日々を過ごした。報道では、危険な作品構造やそれを事前チェックできなかった運営体制が取りざたされ、加えてSNSでは、主催者の事後対応の酷さなどが話題となった。ここではそれらの議論はおくが、私にとってはショックだったのは、多くの報道で、「現代アート作品が炎上した」という表現が使われたことだった。主催者側が、「アートだから」、つまり制作者の自由な裁量に多くを負った表現物であるから、事前の規制には限界があったと主張したという報道もあった。SNSでは、こんなものはアートではない、という声ももちろん多く聞かれたが、その是非よりも、これが社会の中で「アート」の名のもとに場所を与えられた事実について、深く考えなくてはならないと感じる。

 

「異物」が排除されてしまわないために

冒頭で述べたように、アートとは、社会においては時にそれを揺るがす異物として現れるものだ。その領域をいかに守ることができるかを、コンセプトだけではなく、技術的なレベルにおいても私たちは岐路に立たされたのだと感じる。これまで関わった現場のあれこれを思い返し、作家からの提案に対する自分の判断の是非をもう一度問い返す……。この事件は、アートの生産の現場に関わる人間にとっては、あえて言えば、加害者になりうる可能性をイメージするのに十分な衝撃を持ったものだった。

しかし一方で、現場においては、近年は消防計画をはじめ、法令面でのチェックが行われる傾向が強まっている。もちろん安全を確保するための諸基準は最優先されるべきだが、今回の事件を受けて、外部の規範体系から過度の規制が入ることは、それこそアートの死に繋がりかねない。アートの現場で、その安全性とコンセプトの両立について、知識と経験の蓄積、その共有がこれまで以上に試されている。専門家とは何なのか、そして現場の責任とは誰の判断のもとにあるのか(さらに言えば、今回の事件は、人的にも予算的にも限界のある中で、「連携」の名のもとに外部に丸投げを行ってきた文化生産の現場の歪みがひきおこしたものでもあると思う)。アートの現場で曖昧にされてきた多くのことを、今一度、管理体制だけではなく、人材育成のプロセスも含めて問い直さなくてはならない時期に来ているのではないか。それを早急にしなくては、ことなかれ主義が蔓延する世の中で、「異物」は簡単に排除されてしまうだろう。

子どもたちは、アートを通した日常とは異質な体験を通して、自分の世界を外側から見るための一歩を得る。そういうものが世の中に存在するのだということ、それを知り、経験する機会を奪わないように、私たちは、これから多くを学び直さなくてはならない。

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