札幌国際芸術祭(SIAF)2017
現在、私は、来年の夏に開催される札幌国際芸術祭(SIAF)2017に「バンドメンバー」として参加している。バンド仲間は、ディレクターの大友良英さんを筆頭に、狸小路の「シアター・キノ」のオーナー中島洋さんや、美大で後進を育てつつ、炭鉱や「坂会館」など北海道の文化資源を紹介してきたアーティストの上遠野敏さん、90年代半ばからスペースを運営しつつアートシーンを牽引してきた同じくアーティストの端聡さん、草の根的な音楽のイベントをプロデュースしてきた木野哲也さんなど、札幌の文化をそれぞれ自力で支えて来られた方々だ。80年代から札幌で、大友さんも含めたオルタナティブな音楽シーンの国際的な動向を発信してきた沼山良明さんも「調律師」としてアドバイザー的立場で関わる。
外から参加するのは、私とデザイナーの佐藤直樹さんだけ。その皆で、ミュージシャンに転向……ではなく、それぞれの活動を延長させつつ、「芸術祭ってなんだ?」という大友さんから発信されたテーマをもとに恊働しながら、SIAF2017のかたちを作っていくことになっている。
通常、国際展といえば、アーティスティック・ディレクターのもと編成されたキュレーター・チームによってコンテンツが決定されていくスタイルが一般的である。前回の札幌国際芸術祭も、坂本龍一ディレクターのもと、国際的に活躍するキュレーターが参加していた。しかし、今回の芸術祭は、そんなスタンダードははじめからなく、札幌のみんながやりたいことを互いに掲げ合って立ち上げていこう、というスタイル。市民からの発案を主催事業として取り込む公募プロジェクトも目玉だ。「アンサンブルズ」と題された一連のプロジェクトで、音楽を基調としながら演奏家、企画者、技術者から一般の人も交えてぶつかり合いつつ恊働し、既存の枠組みにとらわれない場を作って来た大友さんならではの発想である。「スター・キュレーター」などはもちろんおらず、キュレーターと呼ばれる活動をしてきたメンバーは、私のほかには、会場のひとつであるモエレ沼公園の学芸員の宮井和美さんのみである。
「キュレーター」と「祭りの担い手」
近年、「キュレーター」という言葉は、複数の意味を持って社会のあちこちに偏在している。音楽や映画のイベントの企画者をはじめ、SNSのまとめサイトの編者、ファッション雑誌の読者モデル、ブロガーなどなど。
情報を選んでパッケージし、任意のかたちに落とし込む「キュレーター」という職掌を、大友さんが排除しようとするメッセージは感覚としてよくわかる。「芸術祭ってなんだ?」をテーマに掲げたSIAF2017において、「キュレーター」と「祭りの担い手」の違いを考えることは重要である。グローバルな情報の総体ではなくローカルな関係性を志向すること。「コンセプト」ではなく自発的な意志に基づいて出来事を組織すること。啓蒙ではなく共有のシステムに基づくこと。こうした意志のひとつひとつが、キュレーターたちが作って来た「芸術祭」という枠組みを、真に共同体に必要な何かとして更新する可能性に向かっている。
しかし、このことが本当に成功するのだろうか。現状はフィフティ・フィフティの賭けが続いている、というのが正直なところかもしれない。バンドメンバーのあいだで議論となっていることのひとつに、道内作家の招聘についての考え方がある。前回の芸術祭では、道内作家の参加は限られており、それを補完するように、例えば芸術の森美術館では、枠外の自主企画として、美術館側が道内の若手作家の野外展を組み入れるなどした経緯があった。
今回、一会場の企画として、あるバンドメンバーが、国際的に活躍する作家たちに、これまで自分が一緒に活動してきた道内作家を加えたリストを出し、それに対して別のバンドメンバーから、後者が馴れ合いみたいに見えないか、という意見が出た。その後出された修正案は、日本の現代美術の現在注目すべき若手に絞った、実現したら相当興味深いものだったが、今度は大友さんから意見が出た。「でもこれって、札幌じゃなくても、他所の芸術祭がやればいいことじゃない? ここで、貴方にしかやれないことを見たいのに」。
キュレーターは何をすべきか?
私にとって一連のプロセスは、自分の仕事について考える大きなきっかけとなっている。キュレーターとは、単なる情報の編集者である以上に、場の公共性を担保する存在といえるだろう。その公共性は、あらかじめ規定されたものではなく、諸条件を複合的に検討したうえで構築されるものだ。現在の表現の動向はもちろんのこと、国際芸術祭というグローバルなコンテクスト、ローカルなコンテクスト、公共事業であること、美術史、作品のクオリティ、参加作家のジェンダーや民族性のバランス、マーケットの関心や予算など。それぞれの条件はアートの現場にとって規制として働きうる要素をはらんでいるが、それらを結びつける論理を構築しつつ、「いまここで見せるべきものは何か」を判断し、公共的空間としての展示空間を確保することがキュレーターの仕事ということになる。
しかし、開かれるために担保される公共性とは、えてして閉じた領域としての共同体の論理と対立する。「馴れ合いではないか」というバンドメンバーの議論は、公共性という観点からの危惧だが、共同体の当事者が自発的に立ち上げる「祭り」であるならば、むしろそこから発想すべきなのだ。
では、部外者でありキュレーターである私は、ここで何をすべきだろうか?世界中で行われている「芸術祭」において、地元の共同体と、「芸術」という領域がもたらす外部との軋轢はその存在意義に触れる本質的な問題である。札幌のように、アート・ツーリズムと地域の文化振興の両方に目配りをしなくてはならない、外にも内にも向いた都市型の芸術祭の場合は特に。
「芸術祭ってなんだ?」を掲げた札幌国際芸術祭は、「芸術」と「祭り」が象徴する二つの領域がぶつかる場で何が生まれるかを問う、新しい芸術祭のモデルを示そうとしている。としてみると、私はやはり、札幌の人たちの声に耳を傾けつつ、外部の人間であることを徹底し、開くことを試み続ける役割なのだろう。共同体をプラットホームに、観客やアーティストが内外から行き来し、共振する空間を作り上げるために。よそ者の遠慮は忘れないようにしつつ、来年夏の開催まで、どんどん 踏み込ませてもらうことにしよう。