極限状況下の「アート」とは何か
アートって何——? 美術館でキュレーターとして働くかたわら、私はある大学でここ数年、アートと社会を繋ぐ現場について―ーいわゆるアートマネージメントの授業を担当している。
教室に座っている多くは、印象派の展覧会に行ったことはあっても、自分たちの時代の作品についてはほとんど知るところのない学生たちである。「アートって何?」という何年かけても伝えきれないだろう問いに、乱暴と知りつつ前提として触れるために、ここのところ毎年、冒頭に話すことにしているのが、東日本大震災の直後に、アーティストやアートを支える人たちが、何を考え何を行ったかについてである。
当時を振り返って、私にとって最も印象的な出来事の一つは、震災から一週間後に出かけた、毛利悠子という若い美術家の「アートイベント」が、ただ集まって無事を確認しカラオケをしたりしゃべったりするだけの「なにもしないことをする会」に変更されたことだ。震災当時、身の安全も覚束ない切実さのなかで、「アート」という形而上学的な活動にリアリティを感じられない空気があった。「アートはあくまでも平時の余剰である」という考えが広がる一方で、アドルノの「詩を書くことは野蛮だ」という言葉をSNS等で盛んに見かけたように、あらゆる表象を欺瞞とする感覚が共有され、多くのアーティストが、何も表現できないという状態を経験した。
盛んにチャリティー・オークションが行われ、若手アーティストたちがギャラリーに滞在して、募金の対価となる「作品」を制作した。何もない真っ白な空間に1カ月間、募金箱だけを置いたコマーシャル・ギャラリーもあった。震災ボランティアを組織したパフォーマンス・アーティストや、被災地で人々がともにこたつに入り編み物を行うワークショップを開催した人たちもいた。脱原発の大規模なデモも、アートに関わって来た人たちの周辺から沸き起こった。
それらの全ての活動は「アート」ではなく、しかし後から振り返れば「アート」でもあった。人々は、アートのエッセンスを解体し、別の形に転じさせることで、自分の活動の一貫性を保ちつつ状況に対応しようとした。それは逆説的に、それぞれにとっての「アートって何?」を浮き彫りにしたのだった。
アートが社会にもたらしうる力
その後、「復興支援アート」と言われる動きがさまざまな形で組織され、社会関与型のアートの理論的な根拠についても、グローバルな動向も参照しつつ議論が深まっていくこととなった。この5年の間に、日本各地で無数のアート・プロジェクトが立ち上げられた。また、こうした活動の質をいかに評価するかという問題が、(助成金を適切に分配するための仕組みである)アーツカウンシル制度の普及と絡めた作り手の側からも、また批評の側からも現在進行形のトピックとして提出されている。震災直後に人々が手探りで選択した、社会における価値交換とコミュニケーションのプラットホームとしてのアートの姿は、5年の月日を経て、くっきりとした輪郭線を持ってさまざまな場に現れている。
一方で、それらを目にするたびに、私には、しきりに思い出されるもうひとつの光景がある。それは、ある画家がひっそりと発表した、震災の夜に描いたというおびただしい数の鉛筆のスケッチだ。ランダムに引かれた線の集積なのだが、連続して描かれたものを辿っていくと、無数の迷い線のあいだに、一瞬、山や川や海の風景が立ち上がり、すぐに崩れて混沌へと戻っていく。画家が持っていた原風景とでも言うべきヴィジョンの崩壊と、それに抗おうとする力の拮抗がそこに痛々しく刻印されていた。
震災直後の失語症的な期間にも、多くの表現者たちは衝動を密かに溜めていたはずである。「当事者の経験」を他者がいかに共有することができるかが、アートを問わず多くの場で議論されるなか、交換を前提としない無数の個人の恐れや迷いの痕跡が、人の目に触れない場所に密かに仕舞われたことを想像する。昔、他のある画家のアトリエの調査の折に、アメリカ同時多発テロの光景のもと描かれた未発表のスケッチの束を発見し、胸を突かれたことを思い出す。
表現とは本来、他者とは共有しえない、その人だけの感覚から立ち上がってくるものだろう。アートが社会にもたらしうる力が当たり前のように受け入れられ、ますます注目を集める今、この大きな流れのなかで見えにくくなってしまっているものについて、この連載を借りてもう少し丁寧に向き合ってみたい。真に切実な表現とは、目に見えない多くの迷い線のあいだから立ち上がってくるものだろうから。