ホンモノ志向と物語(フィクション)
その生身ブームの根底には、ホンモノ志向があったと妄想する。仏教が平安貴族にすりより、宮廷社会のとの交わりのなかで次第に俗化していっただろうから、仏道を本気で極めようとする真面目な僧がホンモノ志向に傾いていくのは想像がつく。釈迦の聖地の天竺に行ってみたいと思いつめたり、せめて中国へ渡って高僧に教えを請いたいなどと考える僧が出てきても不思議はない。
奝然もおそらくはそんな僧だったに違いない。ホンモノこそが真理であると僧侶に言われれば、信者のほうもそのように傾いていく。奥健夫「生身仏像論」(『講座日本美術史』第四巻、東京大学出版会、2005年)によれば、『園城寺伝記』に「日本生身尊」として「三如来四菩薩」が記されているという。三如来は、「嵯峨の釈迦、因幡堂の薬師、善光寺の阿弥陀」、四菩薩は「三井寺金堂の弥勒」が挙がっているだけで他の三つはまだ決まってない模様で、奥健夫は本当に四菩薩が存在したのか疑わしいとしている。嵯峨の釈迦は清凉寺の釈迦如来像である。因幡堂(平等寺)の薬師如来像は、施無畏与願の印相の左手に薬壺を持ち、肩幅に開いた足で直立する金色の像である。善光寺の阿弥陀如来像は、一光三尊仏といって、中央の阿弥陀像に観音菩薩、勢至菩薩を脇侍とする三尊が一つの光背の前に置かれる形式の像である。いずれにしろ、直立不動の像に動きはなく、これらの「生身」であることを支えているのは、像にまつわる物語なのである。
たとえば、鎌倉時代の説話集である『古今著聞集』(1254)巻第二、六二話には、善光寺阿弥陀如来像を二度拝した源頼朝が、一度目は定印を結んでいたのに二度目にみたときには来迎印を結んでいたことから「すべてこの仏、昔より印相さだまり給はぬよし申しつたへて候へど、まさしく証を見たてまつりて候ひし」(一般にこの仏は、昔から印相が定まっていないことが伝えられてきたけれども、まさしくその証拠を見た)と述べたとしている。印相が定まっていないというのは、見るたびにポーズを変えるこの像の特徴を言っているので、生きているのだから、いろいろに手を動かすわけである。この挿話自体は、源頼朝の「ただ人にはあらざりける」徳の高さをいうための話であるが、同時に善光寺の阿弥陀像は生きていることを示すものでもある。
あるいは鎌倉時代、後深草院に仕えた女房だった二条が、前半に宮廷生活を、後半に出奔し、旅してまわった先での出来事をつづった『とはずがたり』(1313)にも、善光寺参りのことが書かれている。善光寺あたりは「眺望などはなけれども、生身の如来と聞きまゐらすれば、頼もしくおぼえて、百万遍の念仏など申して明かし暮すほどに……」(眺望などはないけれども、生身の如来だと聞いているので頼もしく感じて、百万遍の念仏などを唱えて明かし暮すうちに……)などと書かれていて、善光寺詣での主たる目的は「生身の如来」に参ることであったらしい。
こうして鎌倉時代には生身の如来としてすっかり有名になっていた善光寺の阿弥陀であるが、清凉寺の釈迦如来像も、『宝物集』(1179-81)に語られた物語によってホンモノ感にますますの磨きをかけていく。『宝物集』は、文楽、歌舞伎などの芝居「俊寛」で有名なあの俊寛とともに平清盛に鬼界ヶ島に流された平康頼(1146-1220)が編集した仏教説話集である。
赦免となり、俊寛を残して京へ戻った後、嵯峨の釈迦が天竺に帰ってしまうらしいという噂がたって京中の人々が最後の参詣につめかけていることを聞いて、主人公が嵯峨の釈迦堂に向かうところから物語ははじまる。釈迦が天竺に帰るという噂が出ること自体、この像が生きている釈迦だと信じられていたことのなによりの証であろう。
釈迦堂では寺僧が集まった人々に釈迦像の由来を説明している。優填王が、忉利天にのぼって不在の釈迦を恋しく思って赤栴檀で姿を写した像をつくったというところは先に紹介した話と同じだが、釈迦が忉利天から戻ってきたときにこの像も迎えに出て釈迦が自分の似姿に次のように告げたことが付け加えられている。
「我は八十の化縁尽きなば入涅槃すべき身なり。栴檀の仏は、末代の衆生を利益し給ふべき仏なり」(私は、八十の化縁が尽きると死して涅槃に入る身である。栴檀の仏は、私の死後に代わりに衆生にためになるべき仏である)。
すると、釈迦像は、釈迦の姿の生き写しであるだけではなく、釈迦の死後に釈迦の役割を果たすべき後継者ということになる。そのような重要な像が栴檀像なのである。釈迦と直接対面し、後継を言い渡された栴檀像でなければ、いくら釈迦を写した像だとはいえ、価値は下がってしまう。そういう理屈だったのかもしれない、なんと清凉寺の釈迦如来像は中国の像の模像などではなくて、ホンモノの方をすりかえて持ってきたのだと寺僧は語りだすのである。
模像をつくらせていた奝然の夢に栴檀の仏がでてきて「我東土の衆生を利益すべき願あり。我を渡すべし」とおっしゃったのだという。そこで奝然は、真新しい模像を煙でいぶしてすすけさせ、古くみせかけて、ホンモノと取り換えて持ってきたのだという。それはつまり盗みをはたらいたということではないのかとの疑問もわくが、まさに仏の願いを叶えるためのすり替えだったのだから許されるのであろう。
さらにすごいことに、『宝物集』のこの話では、この像は天竺で優填王が造った像そのものであって、それがのちに中国へと渡っていたということになっている。いつの間にやら、清凉寺の釈迦如来像こそが、優填王のつくったホンモノの釈迦を写し取った、正真正銘のホンモノの像なのだということになっているである。
ところが、釈迦像の胎内に収められていた「奝然入宋求法巡礼行並造立記」によると、この像をもたらした奝然自身はどうやら優填王思慕像を見ることができず、その姿を写し取った絵から像を造らせたとされる。したがって天竺像をそのまま持ち込むなどという話はまったくのフィクションでまるで成り立たない。しかもこの清凉寺の寺僧の話はかなりいい加減で、奝然が帰朝後、宇治殿に「優填王、赤栴檀を以て移し奉る釈迦の像を、たがへず移し奉る釈迦一体」と書いた解文を渡したと言っているのだが、奝然が帰朝した987年に宇治殿つまり藤原道長(966-1027)の息子、頼通(992-1074)はまだ生まれてもいない。もし藤原摂関家に報告したというのなら、それは道長の父、兼家(929-990)だったはずなのだ。
そうはいっても、胎内に収められた文書など誰も見ることができないのだし、そもそも像内に五臓六腑があることも、昭和29年(1954)の解体修理まで知られていなかったのである。おそらくは口伝で伝わり、またそれは秘伝であったものが、どこかで伝承が途絶えてしまったのだろう。真実が藪の中というより像の中だとするならば、生身の釈迦として名高い像の霊性を高めるための物語がエスカレートしていくのも道理である。なんといっても縁起という、モノの由来を語る物語は信仰心を鼓舞するために創られるのであって、たいていの場合、造像の経緯をかたるための記録ではない。このさい真実などどうでもよいというのが、縁起のあるべき姿である。信心するに値するありがたい像であるということさえ伝わればよいのである。
生身ブームのさなか、まさに「生身」をキーワードとして、また別な寺であらたな縁起が造られていくことになる。「当麻曼荼羅縁起絵巻」である。