遠い地平、低い視点

【第49回】人が死ぬこと

PR誌「ちくま」7月号より橋本治さんの連載を掲載します。

 西城秀樹が死んだ。六十三歳だった――というニュースを聞いたら、朝丘雪路が死んだ、星由里子が死んだというニュースも続いて、テレビの『徹子の部屋』は追悼番組が立て続けになった。なんでこんなに人が死ぬんだろうと思ったら、平成三十年の五月は、平成が終わる「最後の一年」に突入した時期だった。今上天皇の退位はあらかじめ決まっていて、なんとなく平成は自動的に終わるもんだと思っていたけれど、人が立て続けに死んで行くニュースに接して、改めて「あ、一つの時代が終わるんだ」と思った。
 七年前、東日本大震災が起こった二〇一一年にも人が死んだ。有名人が立て続けに死んだというのではなくて、年老いた親の世代が死んで行った。私の父親が死んだ。友人の父親、あるいは母親が死んだ。やたらと葬式の通知、年賀状辞退の通知が届いた。「なんか、今年葬式多くない?」と友達に言ったら、「多いよね」という答が返って来た。
 意外と人は「時代の終わり」というものに敏感なのかもしれない。大地震と大津波と原発事故があって、何万人もの人間がほぼ一瞬にして命を奪われた。そこから再スタートするための、「第二の戦後」だと言う人もいた。それが「戦後」なら、多くの人の死がその下にはある。どんな理由を付けても、東日本大震災が「一つの時代の終わりを示すものである」ということには(多分)ならないだろう。でも、その年に地震や津波の直接的な被害に遭わずに、「寿命」という形で死んで行った人達は、何万人もの人の死、大地の浸蝕と汚染に「時代の終わり」を感じ取って、「終わった」と思って死んで行ったんじゃないのかと、思う。
 多分、人はどこかで自分が生きている時代と一体化している。だから、昭和の終わり頃に、実に多くの著名人が死んで行ったことを思い出す。
 昭和天皇崩御の一九八九年、矢継ぎ早とでも言いたいような具合に、大物の著名人が死んで行った。一部だが、天皇崩御の一月後に手塚治虫が死に、翌月には東急の五島昇、翌月には色川武大、松下幸之助、五月には春日一幸、阿部昭、六月になって美空ひばり、二世尾上松緑、七月は辰巳柳太郎、森敦、八月に矢内原伊作、古関裕而、九月は谷川徹三、一月おいて十一月が松田優作、十二月が開高健。今となっては「誰、この人?」と言われそうな人も多いが、死んだ時は「え?! あの人も死んだの?」と言われるような大物達だった。
 昭和天皇の享年は八十七で、当時としては(そして今でも多分)高齢だった。しかしだからと言って、昭和という時代の終わりと共に世を去った人達がすべて高齢だったというわけではない。手塚治虫は六十歳、美空ひばりは五十二歳で死に、松田優作は四十歳だった。当時は「早過ぎる死」のように思われた。しかし、今になって引いて見れば、この人達は自分の仕事をやり遂げて死んだのだ。
 やり遂げて、その年齢で死んだ。時代を担い、五十代六十代で死んで行った昭和の人達を思うと、その死がなんだか潔く思える。私はもう七十になった。七十過ぎてまで現役作家をやっている人は、昭和の頃にそうそういなかった。それ以前に、ある程度の地位を確保して、そのまま「えらい隠居」みたいな感じで生きていた。私なんか、もう才能が涸れて「どうしたらいいのか分からない」状態になっていても不思議はないのに、どういうわけか、頭は若い。「いつまで若いんだろう?」と思うと、少しいやになる。
 二度の脳梗塞を患い、苦しいリハビリに励んで、でも六十三歳の西城秀樹は「ヤングマン」だった。無理して若振っているのではなく、六十三歳でも「ヤングマン」のままでいた。平成がスタートした時、西城秀樹は三十三歳だった。それから三十年たっても、彼はさして変わらない。彼だけではない。彼と共に「新御三家」と言われた野口五郎と郷ひろみも、六十を過ぎて老いてはいない。
 平成の三十年は不思議な時間だ。多くの人があまり年を取らない。たいしたことのない芸能人が、古くからいるという理由だけで「大御所」と呼ばれる。年を取らず、成熟もしない。昔の時間だけがただ続いている。平成の時代を輝かせた「平成のスター」である安室奈美恵や小室哲哉は、平成が終わる前に消えようとしている。平成は短命だが昭和は長い、というのではないだろう。昭和は、その後の「終わり」が見えなくてまださまよっている――としか思えない。
 三十年という期間がどれくらいかと言えば、終戦の一九四五年からオイルショックで経済がマイナス成長を記録する一九七五年までが三十年。その前年に東京タワーが完成し、年が明ければ皇太子時代の現天皇の結婚式があり、豊かさへスタートする一九五九年からバブルの一九八九年までが三十年。三十年は「そういう期間」だ。

PR誌「ちくま」7月号

関連書籍