日本思想史の名著を読む

第1回 會澤正志斎『新論』

日本思想史上には、画期となる名著が多数生まれてきました。神話や物語、説話、さらに歴史書・史論、社会・政治評論、そして近現代の思想史学――それらを選りすぐって読み解き、「人間とは何か」という普遍的な問いへの、それぞれの時代の思考様式を明らかにする新連載(全18回予定)。第1回は、會澤正志斎『新論』を取り上げます。

日本版儒学の原点?

 日本の思想に関して、誤った理解が世に流布している例は少なくない。一般論として言えば、歴史上の人物について、普通の人が思い描く人物像と、歴史の専門家が研究の成果に基づいて共有している実像とが異なるのは、よくある話である。そうした食い違いが生じることについて、やたらに目くじらを立てなくてもいいだろう。
 だが朱子学については、特に論じるべき問題が生じている。たとえば、現行のある高校日本史教科書はこういう説明を施している。「その大義名分論の与えた影響は大きく、後醍醐天皇を中心とする倒幕運動の理論的なよりどころとなった。」「朱子学は君臣・父子の別をわきまえ、上下の秩序を重んじる学問であったため、[江戸]幕府や藩に受け入れられた。」
 朱子学あるいは儒学の特質として「上下の秩序を重んじる」点を第一に挙げることや、徳川時代の初期から「幕府」と「藩」とが朱子学を重視したという理解も、そもそも問題があるのだが、ここで注目したいのは、「君臣・父子の別」と「大義名分論」という言い回しである。
 「大義名分」とは、言葉の意味に即すれば、正しい道と、社会秩序における地位に応じて守るべきけじめ、というくらいの意味である。だが、臣下は主君の命令に対して、その是非を問わずに絶対的な忠誠を捧げるべきだという規範を述べる文脈で使われることが多い。そして、尾藤正英『日本の国家主義――「国体」思想の形成』(岩波書店、二〇一四年)、渡辺浩『近世日本社会と宋学』(東京大学出版会、増補新装版二〇一〇年)といった先行研究も指摘するように、そうした主張に基づいた「大義名分」という表現は、中国の儒学思想には見られない。徳川時代の儒者によって作られたものなのである。
 また、ある国語辞典で儒学の基本概念である「五倫」を引くと、「君臣の義」が第一に挙がっており、二番目に「父子の親」が並んでいる。人間関係の五つの類型のうち、君臣関係を第一に挙げる例が、中国の古典文献にないわけではない。だが、『孟子』滕文公上篇に見えるように、「父子の親」(母子関係も含めて親子のあいだの親愛)を第一、「君臣の義」を第二に挙げるのが標準だろう。両親に孝行を尽くし、わが子を慈しむのが儒学においては最優先のモラルである。それに対して、主君に仕えて忠誠を尽くすことは、「義」すなわち正しい道を、統治者としてともに実践するかぎりにおいての義務とされている。年老いた親の介護が必要になれば、官職を辞して世話をするのが当然であるし、主君の命令が正しい道に背いているなら、それに従うことを拒否して、君臣関係を断ち切っても構わない。
 これに対して、たとえば浅見絅斎のような徳川時代の朱子学者は、「大義」「名分」の語を強調して、主君に対する「忠」を絶対的なものとして説いた。その点に関しては、現実に生きている武士たちのモラルと適合するように、修正を試みたのである。そうした徳川時代の儒学の傾向に注目して、朱子学は「大義名分論」を特徴とし「上下の秩序を重んじる」ものだという理解が広まり、いまでも日本史教科書や国語辞典の記述に影響を与えている。そしてこの「大義名分論」の普及にもっとも貢献したのは十九世紀の水戸学であった。その学派の著作のなかで最も多くの読者を得た書物が、會澤正志斎(天明二・一七八二年~文久三・一八六三年)による『新論』(文政八・一八二五年執筆)にほかならない(以下、『新論』からの引用は今井宇三郎ほか校注『日本思想大系53 水戸学』岩波書店、一九七三年による)。

水戸藩と「國體」

 学派としての水戸学は、十七世紀後半に活躍した、水戸藩の二代目の藩主、徳川光圀(義公)に始まる。徳川時代のはじめには、家中の武士たちに学問を奨励するような大名は少数派であるが、光圀はその一人であった。中国での明から清への王朝交替にともなって日本へ亡命した朱子学者、朱舜水を藩邸へ招いて朱子学を学び、日本古典の研究として『釈万葉集』などの編纂を進めるとともに、日本の通史である『大日本史』の編纂事業に着手した。そして江戸小石川の藩邸に設けた彰考館に多くの学者を集めた結果、主として朱子学、それに加えて伊藤仁斎の古義学や荻生徂徠の古文辞学を学んだ史臣たちが、学問の一派をなすに至る。これが水戸学である。
 だが、水戸学が独自の思想集団としての性格をもち始めるのは、十九世紀初頭、文化・文政期の水戸における藩政改革に活躍した、藤田幽谷からと言ってよいだろう。研究の上では、これ以降、水戸藩で活躍した思想家たちを後期水戸学と呼ぶ場合がある。彼らはみな、水戸徳川家に仕える武士として現実政治に関わりながら、彰考館や、のちに設立される藩校、弘道館を舞台に、学問また政治上の議論を闘わせていた。會澤正志斎は藤田幽谷の弟子として、幽谷の息子である藤田東湖とともに、一八三〇年代から天保期の藩政改革に携わることになる。
 『新論』は、水戸藩の第八代当主、徳川斉脩(なりのぶ)にあてて上程された書物である。その執筆の四年後に藩主は斉脩の弟、斉昭に代わり、天保改革を主導することになるが、まずはそうした藩政改革を期待して、斉脩にむけ政策案を提示した文書と見ることができるだろう。だがそこには、水戸藩ならではの特殊な条件が加わることになる。水戸徳川家は、尾張、紀州の徳川家と並ぶ、いわゆる御三家の一つとして、大名としては特別の地位をもっていた。江戸城の公方にとっては、跡継ぎが出る可能性もある親戚であり、旗本を監督して北方の防備にあたる役も任されていた。したがって、おそらくは斉脩を経由して公方に伝わることも予想しながら、日本全体の統治に関わる提言を正志斎は『新論』に盛りこんだ。正式に公刊されたのは安政四(一八五七)年のことになるが、それ以前にも写本や海賊版の刊本によって、広く全国で読まれたと思われる。
 『新論』における改革提言の背景には、経済の発達を背景とする武士の頽廃や、天明の飢饉を通じて困窮した百姓が離散するといった、日本国内の危機状況もある。だがそれよりも前面に出ているのは、西洋諸国がやがて日本に侵略してくるのではないかという、対外的危機感にほかならない。すでに十八世紀末から、ロシアや英国の船が通商を求めて接近してきた状況は、北方防備にあたる水戸藩にとっては重大な関心事であった。しかも文政七(一八二四)年には、英国の捕鯨船が常陸の大津浜に接近し、船員が食糧を求めてボートで上陸する事件が起こる。正志斎はみずからその取り調べにあたり、西洋諸国の動向に関する情報をえて、翌年に『新論』を書きあげたのである。
 したがって、この本で正志斎がもっとも重要な課題にしたのは、日本の独立を保つための人心の統合である。西洋諸国がインドやジャワ、フィリピンへと進出し、支配下に置くことができたのは、キリスト教を侵略の手段として用いたからだと正志斎は考えた。彼らは日本に接近して、まず庶民に密貿易をもちかけ、キリスト教の神秘的な教えによって、西洋諸国の方に人心を惹きつけてゆくだろう。そうなればキリシタン大名が輩出した戦国時代と同じように、日本国内は分裂し、やがて西洋人によって支配されてしまう。
 これに対抗して、武士だけでなく町人・百姓までも含めて忠誠対象を統一するために、『新論』が提起したのは「國體」すなわち日本独自の国のあり方であった。そこでは「天祖」すなわち天照大神が、「天胤」すなわち歴代の天皇に天下を治めさせ、その下であらゆる人々が「君臣の分」を守りながら、日本全体の統治に何らかの形に関わることとなる。この上下の秩序は「天祖」が定めたものなので、動くことがない。
 そうした論理によって、日本では、いまの天皇に絶対的な「忠」を尽くすことが、過去の天皇の統治を同じく支えた先祖の志を継承することにもなるという意味で、「孝」の実践と一致すると正志斎は説く。そして、天皇の即位に際して、神を祀る大嘗祭を大規模に行なうことで、あらゆる身分の人々に「國體」を再認識させ、日本全体の秩序を保つよう、人心を統合できると説いた。正志斎の議論は、日本全体の統治はあくまでも江戸の公方が行なうことを前提としており、尊王論ではあっても決して倒幕に結びつくものではない。だが徳川末期において、ペリーの来航と「開国」ののち、公儀に対する信頼がゆらぐようになると、尊王攘夷運動の書として『新論』は読まれるようになる。さらにまた、明治期の教育勅語や国民道徳論に、その影響をのこすまでに至ったのである。

祭祀と家職

 だが正志斎の『新論』が独自なのは、人心統合にむけた以上のような議論が、一種の人間論としての深みを伴いながら提起されている点であろう。高山大毅『近世日本の「礼楽」と「修辞」――荻生徂徠以後の「接人」の制度構想』(東京大学出版会、二〇一六年)などの近年の研究によって、単なる「國體」論者には尽きない側面が明らかにされている。
 『新論』の冒頭近くでは、「天祖」がニニギノミコトに三種の神器を与えたさい、「此を視ること猶ほ吾を視るがごとくせよ」と命じたことをとりあげている。その命ずる心持ちを、一般人も自分の態度とすることが、「忠孝」が一体となる実践を支えるという趣旨であるが、そのさいに正志斎は、鏡を見て自己の姿から祖先の風貌を思い浮かべるのだという説明を与えている。鏡をのぞいたときに、自分の父親もしくは母親と似ていることに気づく。そのときに人は、祖先から「職」を代々受け継ぎながら、自分が存在していることを深く実感するだろう。
 正志斎が大嘗祭を重要視したのも、こうした先祖からの系譜を人々に実感させ、「忠孝」に励むことの大事さを教えるからであった。『新論』の「長計篇」で、古代中国の「聖人」が定めた先祖の祭祀について、こう語っている。「聖人は祀礼を明らかにして、以て幽明を治め、死者をして憑(よ)るところありて以てその神を安んぜしめ、生者をして死して依るところあるを知つて、その志を弐(たが)はせざらしむ」(前掲『水戸学』一四三~一四四頁)。天皇が「天祖」に対して、そして自分が先祖に対して行なうのと同じく、子孫もまた自分の志を継いで、「職」の実践を続けてくれる。そうなれば自分の「志」が永遠に生き続けるのと同じだから、死を恐れることはない。――祭祀と家職の継承によって、死の不安を乗り越えてゆくこと。そうした要素もまた、『新論』の「國體」論が人々を魅了した原因になっていたのだろう。

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