日本思想史の名著を読む

第6回 海保青陵『稽古談』

旅する儒者

 日本の思想をめぐる誤解のうち、一般人というよりも専門の研究者に広く流布している言説として、こういうものがある。ーー前近代の日本では「自由」という漢語は、わがまま勝手という否定的なニュアンスで使われるものだった。したがってこれは西洋思想のfreedom、libertyとは似て非なるものである。日本人がいまだにまっとうなリベラリズムを実践できないのは、これを「自由」と訳し、単なるわがまま勝手として理解してしまったためなのだ。
 この誤解は、さかのぼれば柳田國男や津田左右吉も同じようなことを言っていて、信憑性が高いように見えるから厄介である。これはおそらく、福澤諭吉が徳川末期に刊行した『西洋事情』初編(慶應二・一八六六年)で述べていた主張に根拠をもっているが、その読解が不十分である。そこで福澤は西洋における「文明の政治」の原理(「要訣」)として六点を挙げていた。その筆頭に挙げたのが「自主任意」(freedom, liberty)であり、説明に加えた付注でこう述べている。「本文、自主任意、自由の字は、我儘放蕩にて国法をも恐れずとの義に非らず」「英語に之をフリードム又はリベルチと云ふ。未だ的当の訳字あらず」。
 これを表面だけで見ると、たしかに漢語の「自由」は「我儘放蕩」という否定的な意味しかもたないので、libertyとは異なると福澤が言っているように見える。だが実際には、渡辺浩『日本政治思想史[十七~十九世紀]』(東京大学出版会、二〇一〇年)が指摘するように、「手が不自由」と言う場合のように、思うままに何かを実行できることを示す肯定的な言葉として「自由」を用いる例は、日本でも前近代からある。しかし西洋においてlibertyが政治の究極の原理として機能しているという強い規範性は、そうした政治観のない東アジアでは理解しにくい。したがって「自由」という卑近な日常語でそれを訳すのはためらわれる。――福澤はそうした趣旨で、付記で注意をうながしているのだが、「自由」が訳語として定着したあとの時代には、そのニュアンスがわからなくなってしまい、先に見たような誤解を生んだのである。
 政治という営みが第一に尊重しなくてはいけないものとしてlibertyを挙げるような思想は、前近代の非西洋圏には存在しなかった。だが、そうした政治の原理という文脈ではないにせよ、望ましいものとして「自由」の言葉をしばしば用いた思想家は前近代の日本にもいた。それが、徳川時代後期に活躍した儒者、海保青陵(宝暦五・一七五五年~文化十四・一八一七年)にほかならない。
 青陵は江戸で、丹後宮津藩の青山家の家老の子として生まれた、武士出身の儒者である。父も青陵自身も、荻生徂徠の孫弟子にあたり、加えて蘭学者、桂川甫周とも密接な交流をもっていた。荻生徂徠の思想は、朱子学を始めとする経書解釈の先行学説を徹底的に批判する姿勢によって、さまざまな学問流派に開かれた気風を、知識人にもたらしたと言われるが、まさしくそうした諸学派が交錯する地点に生まれ育っていた。
 青陵は十七歳のとき、父と縁のあった尾張藩から留書<とめがき>(書記)の役職に迎えられるが、それを弟に譲り、青山家に儒者として仕える道を選ぶ。それは儒者ならば、「他家ヘユキタキトキニユカフト自由ナルユヘ」の選択であった(『稽古談』、蔵並省自ほか校注『日本思想大系44 本多利明・海保青陵』岩波書店、一九七〇年、三四四頁。以下、引用は同書による)。三十五歳のときに青山家も離れ、全国各地を旅するようになる。そして、それぞれの地方の大名や豪農・豪商に学問を説き聴かせて、彼らからの援助によって生活していた。いわば宮仕えを拒み、全国を旅しながら大名や豪農たちに講義を行ない、訪れた各地での見聞がまた、彼らに財政や経営のノウハウを伝える講義の材料になった。そうした旅に暮らす人生のあり方にも、青陵が「自由」を愛したことが表われているようである。

「稽古」のレトリック

 海保青陵には多くの著書があるが、そのほとんどは「○○談」という題名で、講義を漢文訓読調の和文でまとめたものになっている。平易な言葉づかいで、一つの話題についてさまざまな見聞の例を挙げながら、長々と説明する調子なので、実際に講義していた内容に近いのであろう。『稽古談』(文化十・一八一三年筆)は、そのなかで最も詳しく青陵の思想を書き記した著作と言われている。おそらく大名家で要職についているような武士を対象として語られていると思われ、その地方の「国」を富ませるための財政策と人材登用とを論じた書物であった。
 この「稽古談」という題名にも、そもそも挑発的な調子がある。「稽古」とは、冒頭で青陵が説明するところによれば「古<いにし>ヘト今トクラベ合セテ見テ、古ヘノヌキンデヽヨロシキコトヲ、カンガヘテ用ユルコト」である。これ自体は、儒学の経書に書かれている古代中国の制度や風俗を理想とする儒者にとって、当たり前の発想であろう。
 ところが青陵は、朱子学の登場ののち、通常の儒者が重視する『論語』『孟子』が記している孔子・孟子の言葉は、「今日」の政治を論じるには役に立たないと説く。孔子や孟子が生きた春秋・戦国時代は、中国が分裂状態にあり、諸侯による小国がおたがいに争う、戦乱の世であった。孔子は人々が争う原因を「利」を求める心理に求め、「利」の追求それ自体を蔑んだ。孟子は民を大事にすることを統治の目標に掲げ、天下全体の民の気持ちを一人の君主へと惹きつけるやり方を説いた。いずれも、すでに二百年も「昇平」の世が続く徳川時代の日本には、まったく合わないやり方なのである。
 この青陵の講義を聞いていた武士は、おそらく朱子学を基本にして、『論語』や『孟子』についても何らかの教えをすでに受けた人々だろう。ある意味では冒頭でそうした彼らを驚かせ、話の続きに関心をむけさせる話法と言える。代わりに、「昇平」の世の参考になる「古」の経書として青陵が挙げるのは、孔子よりも前の周の世にあった制度を詳しく説いた『周礼(周官)』にほかならない。
 それは、孔子のように「利」を疎んじることがなく、商工業者から「運上」を徴収する政策、「民ニ米銭ヲカシテ利息ヲ取ル法」など、政府の財政策を論じているところが、平和な時代の統治にはぴったりくる。青陵はそう論じるのである。荻生徂徠の思想は、朱子学が基本的な経書として指定した四書(大学・論語・孟子・中庸)の聖典化をやめ、むしろ四書よりも古い六経(詩・書・礼・楽・易・春秋)を、そのテクストの本文のとおりに読むことを学問の根本姿勢として指定した。そうした批判的な姿勢を、青陵もまた準用していると言える。

「富国」のポリティクス

 『稽古談』で青陵が唱えるのは、大名家が財政を豊かにし、民も重税や厳しい法律によって苦しむことなく、「国」の全体を豊かにする政策であった。そのモデルとして『周礼』の記述や中国古代の富国策についても言及があるが、むしろ多く挙げるのは、同時代の大名家やそこに出入りする商人が、いかにして「富国」を可能にしているか、そうした諸地方での実例である。
 徳川時代の日本は、空前の経済発展期であり、大坂を中心にした全国的な市場が確立していた。都市と商業が拡大することは、米を年貢として取ることで財政を賄う、大名や武士たちにとっては財政難の原因になる。しかしその中で、商業の発展を基盤にして財政の再建に成功した大名家も出てきた。そうした同時代の状況を青陵はとらえて、『稽古談』でさまざまに紹介するのである。
 青陵は「土地ノ物ヲ出スハ土地ノ性也。取レバヘルト云理ハナキコト也」と説く。さまざまな作物の生産を百姓に奨励し、大名家がそれを収納して、市場を通じて他国(日本国内のほかの大名領)へ売りに出す。作物は取れば取るほど増えてゆくものだという発言の背景には、経済が発展し豊かになってゆく変化のただなかに、日本社会はあるという直感が働いているだろう。ここにはすでに、社会全体の富の総量は一定であることを前提とし、統治活動に必要な分だけに政府の財政の規模を限ろうとする、儒学の伝統的な発想からの離脱が見られる。
 さらに青陵は日本の武士にある、商売人を蔑む気風をきびしく批判する。武士もまた、年貢米を市場へ売りに出して金を入手し、生活や統治の費用にあてる点で、商人のような存在である。しかも大名と家臣の関係も、大名が家臣に知行米を与え、家臣が大名のために働くという「ウリカイ」であるとまで説明する。そうした武士が、なまじ儒学の影響を受けて「金ヲ賤シム」態度をとるのは、まったく自己欺瞞にすぎない。
 ただし武士と町人・百姓との身分の上下関係を、青陵が否定したわけではない。『稽古談』で説いている重要な方策の一つは、百姓たちが作物の増産にはげむよう誘導してゆく「枢密賞」である。それは百姓の生活のためというよりも、大名家が自分の「国」を豊かにし、ほかの「国」との競争に勝つためであった。

 今ノ世ハ隣国ニモ油断セラレズ、自国ヲモ油断ナフ養ハネバナラヌ時也。隣国ニモ油断ナラヌト云ハ、隣国ニテ土ノ出ノ多フナルヨフニスルニ、此方ノ国ニテ工夫セネバ、隣国ハ富テ、此方ノ国ハ貧ニナル也。隣国富テ此方貧ナレバ、金銀ハ富タル方ヘナラデハ流レヌモノ也。(前掲書、二九五頁)

 少しでも「油断」をしていれば、たちまちに「金銀」は他国に奪われて、自国は貧窮に陥ってしまうだろう。青陵の「自由」の追求は、個人の「自由」な生き方を離れた統治論の文脈では、「自由」な市場活動を通じての大名家どうしの競争へとむかってゆく。武士もまた「ウリカイ」によって身を立てる点で商人と同じだと説く発想には、一種の平等主義の主張が潜んでいる。しかしそこで提起される社会の像は、「富」の増殖を競いあう、きびしい競争の世界にほかならなかった。