遠い地平、低い視点

【第32回】アクセルを左にしたらどうだろう

PR誌「ちくま」2月号より橋本治さんの連載を掲載します。

 最近、交通事故がひどい。特に、年寄りのそれが。
 八十を何歳も過ぎた認知症の男が、軽トラックに乗って勝手にゴミを集めながら車ごと徘徊して、通学する小学生の列に車を突っ込んだ。まだ幼い小学生が死んだというニュースを聞いて、「お前が死ね!」と、人を殺した自覚もないまま平気で生きている老人に対して思った。
 少し前には、やはり認知症の老人が宮崎県の方でメチャクチャなスピードを出して駅前の歩道に突進して何人かを殺したり重傷を負わせた事件があった。こっちも、認知症の男は死にもせず無事だった。
 車が急に猛発進して車道をはみ出したら、その瞬間から凶器になる。フランスのニースやドイツのベルリンで、大型車輛が歩道や人の集まる広場に突っ込むテロがあった。大型車輛じゃなくても、普通の乗用車がブレーキを踏むところを、間違ってアクセルを踏めば、急発進してハンドルがドライバーの手を撥ねつけて兵器になる。運転している人間は無事で、ただ歩いている人間が殺される。乗用車ではなくとも、電動車椅子でも恐ろしいことになる。
 以前、電車の駅の入口近くで、電動車椅子がウロウロしていた。乗っている老婦人がふっと操作方法を間違えたらしい。乗っている老婦人は「あれ、あれ、あれ」と言い続け、その間車椅子はグルグル回っている。周りは人が多い。その人達が渦を作って、近づく車椅子から身をかわそうとしている。
 時速十キロに足らなくても、電動車椅子は電動であるがゆえに大きく重い。「こんなもんに押し潰されて骨でも折ったらたまらない」と思って逃げたけれども、年寄りの「あれ―」は、時として恐ろしい。間違えてアクセルを踏んで、「あれ―」と言った時にはもう人が死んでいる。老人がブレーキとアクセルを踏み間違えたことで起こる事故は、どれだけ続くのだろうか。認知症ではなくとも、「あれ―」の一言で人が死ぬ。
「年寄りに車を運転させるな」とは言えないのだろう。車がなければ移動に困る地域もある。「認知症のチェックをもっと厳格かつこまめにして、引っかかった人間は免許停止にしろ」とは言うけれど、必ずしも認知症の人間だけがアクセルの踏み間違いをするわけではない。年を取ると脳の判断領域は狭くなる。それを補う身体の瞬発力は落ちて、その行為がふさわしいかどうかの判断抜きで、習慣化したことを平気で、あるいはうっかり、やってしまう。
 どこかのメーカーが、ブレーキとアクセルを一つのペダルの中に同居させて、片側を踏めばブレーキ、反対側に力をかければアクセルになるという部品の開発をしたと言っていたが、これに実効性があるかどうかは疑問に思う。長い間同じことをやり続けて習慣化してしまった人に、その習慣をやめさせて別のやり方を教えても、簡単には呑み込めない。もしかしたら、「新しいやり方を呑み込む」という苦行に疲れてやめてしまうかもしれない。生半可に「分かった」と思って車に乗って、いざという時「あれ、どっちだっけ?」と思ってしまえば、その時にはまた人が死ぬ。
 それで思うのだけれども、車のブレーキとアクセルの位置を左右で入れ換えたらどうだろう? 車を運転している時、ブレーキを踏む回数よりも、どうやらアクセルを踏む回数の方が多い。だから、操作しやすいように、アクセルペダルは右足の下にある。だからなんかの折り、ブレーキを踏もうとしても、踏み慣れているアクセルペダルを踏んでしまう。それが「踏み間違えの事故」なんだから、今あるブレーキとアクセルの位置を逆にしてしまえばいい。
 そうすれば、「あれ―」と思った時に人は死なない。「あれ―」と思った時、車は動かなくなっている。「あれ、あれ、あれ―」と思って同じペダルを何度も踏んで、気がつく人間は自分がブレーキを踏んでいることに気がつくだろう。道路の真ん中に不思議な停まり方をしている車を見て、そこで衝突事故が起こるにしろ、車同士だからそう簡単には死なないだろう。坂の途中でブレーキを踏んで止まっている車に、後続車のクラクションがやかましく、「お前の車は操作を間違っている」と教えてくれることにもなるだろう。やたらとあちこちの道路上で一時停止をする車が増えて、道路渋滞は増えるだろうが、人があっさり殺されるよりましだ。
 この間、タクシーに乗っていて、車が前に進まないのにイライラしていた。「渋滞かな?」と思って前を覗き込んだが、そうでもない。前にノロノロ走る軽自動車がいたせいだった。「なにしてやがんだ!」と思ってその車を呪ったが、停まった車から降りた運転手はヨボヨボのジーさんだった。「年寄りだからしょうがないな」と思って、イライラは消えた。もうそういうスローダウンの時代なんだ。

 

PR誌「ちくま」2月号

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