私たちの生存戦略

第二回 家族ごっこ

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

高倉陽毬の「良い妹」ごっこ
そしてそんな彼に性愛を向けられる陽毬は、自分を虐待から救ってくれた次兄である晶馬を「運命の人」だと感じている。
陽毬が晶馬に抱いている感情は、恋にも似ているかもしれない。けれども彼女は冠葉と違って、兄への思慕を超えるような行動に出ることはない。
彼女はこの上なく良い妹としてのみ振舞っているのだ。
現代の医療では治ることのない難病を患いながらも、不満や苦痛を訴えることさえない彼女は健気である。二人の兄を慕い、彼らの可愛らしい妹であり続けようとしている。
なぜなら彼女は兄を愛しているから。兄達に愛されていることも、知っているのだから。
そもそも過去の虐待の記憶を持つ陽毬は、愛すべき存在として選ばれないことは「死ぬ」ことに他ならないのだと考えているのだった。

陽毬がほとんど過剰なほど「良い子」であるのは、虐待を受けた過去と無縁ではない。
陽毬の小学生時代が明かされる第九話では、あまりにも「良い子」な陽毬に対して、彼女の口から不満を引き出そうと試みる人物(サネトシ)が登場する。
けれども彼女はこの誘惑を拒絶する。なぜなら彼女は、破壊衝動に駆られたサネトシには決して理解できない、特異な檻の中にいるのだから。
陽毬は本当に気立ての良い素敵な女の子で、同時に、「素敵な女の子」の檻から決して出られない呪いをかけられているとも言えるのだ。
この呪いは、彼女が出会ってきた「家族」にかけられたものである。
たとえば冠葉が高倉父を依然として尊敬しているように、彼女は高倉母を今も慕っている。現在でも晶馬のお味噌汁を飲む時には「お母さんと同じ味」と言い(第一話)、友人が母にカレーの作り方を教えてもらったと聞けば母を恋しがる(第三話)。
第九話で彼女が思い出すのは、小学生の頃、自分のワガママによって高倉母に一生消えない傷を負わせてしまったことである。自分を庇って怪我を負った母の姿は奇妙なアングルで映される。それは陽毬が、恐怖にも似た罪悪感を抱いたことを示しているのだ。
高倉母は陽毬がアイドルになる未来を楽しみにしている、だから怪我をしたのが陽毬じゃなくてよかった、と言っていた。陽毬はそんな高倉母への罪責感と思慕を抱き続けている――陽毬を「加害者の子ども」にし、彼女がアイドルになる未来を奪ったのも当の母なのに。

けれどもどうしてワガママなんて言えるだろう? 「選ばれないことは死ぬこと」だと考えていた彼女が新たな家族に迎え入れられ、ワガママを言った時に起きたのがこうした出来事だとしたら、「良い子」以外の何になれるだろうか? 彼女はもう、良い子である他ない。
愛し、愛されていて、だからこそ陽毬は檻の中に閉じ込められているのだ。