移動する人びと、刻まれた記憶

第4話 赤い牌楼はいつできたのか?②
チャイナタウン復活を夢見た、二人の老華僑の思い出(後半)

韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載第4話後編です。「世界で唯一チャイナタウンがない国」と言われた韓国で、華僑の人びとはどのような変化を経験したか。ぜひお読みください。

世界で唯一チャイナタウンがないと言われた韓国
 なかでも1960年代末に出された「外国人特別土地法」は、華僑たちの希望を打ち砕いた。「外国人は農地を所有できない」「家も店舗も一軒だけ」「宅地は200坪以下、店舗は50坪以下」――華僑は大型店舗もチェーン店の経営もしてはいけない。自分の小さな店だけやっていればいいという。ちなみに、この法律は1998年まで改定されなかった。1987年に韓国が民主化された後も、在韓華僑の権利は長らく置き去りにされたままだったのだ。
 あまりにも露骨な差別法に華僑たちの落胆ははげしかった。もう韓国ではやっていけないと、1970年代に多くの華僑が韓国を離れた。国籍地である台湾をはじめ、アジア系移民の受け入れを始めたアメリカやカナダ、あるいは日本に向かった人も多かった。わずか10年間に当時約3万人余りといわれた在韓華僑人口の半分が海外に流出し、チャイナタウンの灯も完全に消えてしまった。韓国は世界で唯一チャイナタウンがない国と言われるようになった。
 韓さんの家族も両親と兄弟は台湾に移住した。韓さん自身も結婚した直後に一時期、大阪に出稼ぎに行ったものの、しばらくして韓国に戻ってきた。
 「日本のほうがよかったけどね。でも俺はここで生まれたからここで暮らすのさ」
 「韓国人は人間を平等に見ないんだ。必ず上下をつける。食堂をやる華僑は犬猫同然、店に来ても横柄な態度で、我々を下人のように扱ったのさ」
 韓さんはいつも怒っていた。店に人がいてもお構いなし、激しい口調は変わらなかった。お客さんは何も言わずにチャジャンミョンを食べていた。悲しいから怒っているのだと、みんな知っていたのだと思う。

オ・ジョンヒが見た「中国人町」
 韓国人の中国人に対する思いは、日本人が考えるよりもずっと複雑だ。地続きの大国との歴史は常に緊張関係にあり、朝鮮戦争における中国軍の参戦もまた新たな記憶として追加されていた。共に戦火をくぐり抜け、反共の同志として韓国軍に入って戦った華僑青年もいたが、それによって両者に強い紐帯(ちゅうたい)ができたわけではなかったようだ。
 韓さんのお父さんが焼け野原の仁川に戻って商売を始めた頃、隣町に住んでいた韓国人作家が書いた物語がある。1979年に発表された「中国人町」は著者であるオ・ジョンヒ(呉貞姫)の自伝的短編だ(『金色の恋の夢』波多野節子訳、星雲社、1997年に収録)。1947年生まれの作家は、小学校2年生から6年生までを仁川で過ごし、その時に子供の目から見た街の様子を描いている。
 「大きな図体にくらべて屋根の勾配が急で棟が短く、奇妙にアンバランスで見慣れないスタイルの家々だった。それらの家は一種の敵意をふくみ、冷淡で無関心な様子で坂の下を見下ろして立っていた。(中略)甲殻類のように口を閉ざした家々は、わびしく、しかしほとんどの古い建築物がそうであるように、残されなかった記録を想像させる歴史の余白として、すこし悲壮な感じで海にむかって立っているのだった」
 作家が暮らした家は、そこと石段で隔てられた旧日本人租界の側にあった。
 「わたしたちが住む町内と彼らの町内は、ひっくるめて中国人町と呼ばれていた。しかし同じ町で隣り合って暮らしながら、彼ら中国人に関心をもつのは子供たちだけだった。大人たちは無関心に、だが軽蔑した口調で『豚野郎ども』と言った」
 そんな中国人町の風景の中に、当時は同じくまだ小学生だった韓さんを埋め込んでみる。そうすると私の脳裏に浮かぶのは、何人かの在日コリアンの友人たちだった。なんのことはない、私が子供の頃の日本にもあった風景だった。
 「年老いた中国人たちは、こんなわたしたちに向かって、時おり微笑んだ」
 同じである。友人の家があった狭い路地には、白い韓服を着たお年寄りたちがいた。

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