妄想古典教室

第十一回 鏡よ、鏡よ、神々よ

真実を映す鏡
 実際、鏡が映像の鮮明さを求められるのは日常の場であって、祭祀の場ではなかったろう。ところが、『枕草子』「上に候ふ御猫は」章段を読むと、日用品としての姿見の鏡でさえも、そのままを映す以上の神秘性があると、どこか信じられてもいたようなのである。
 一条帝の宮中に翁まろという犬がいた。ある日、翁まろは、天皇のかわいがる猫にかみつこうとしたので袋叩きにあって宮廷を追い出された。やがて体をひどく腫らした犬がやってくるが、翁まろは打ち殺して捨ててしまったはずで帰ってくるはずがない。それにもし翁まろならば、「翁まろか」と呼べばよろこんで飛んできたものなのに、いくらよんでも寄ってこないから、これは翁まろではないということになった。
 ある朝、中宮定子が鏡にむかって身繕いをしながら、翁まろをあんなに打って、死なせてしまったなんてかわいそうなことだったと話していると、庭先の、体を腫らした犬は、ふるえわなないて涙を落とした。これこそ、やはり翁まろであったのだと、人々はようやく気づいた。
 このとき、翁まろであることを中宮に確信させたのは鏡の影像なのである。暗い室内で、中宮の髪を櫛けずるのに、おそらく鏡は、外の光をとりこむために、うちから外へ向けられて、ちょうど庭先を映すような角度に掲げられていたであろう。女房に「御鏡を持たせさせたまひて御覧ずれば、げに、犬の柱もとに居たるを見やりて」とあるから、中宮は鏡越しに翁まろが映し出されているのを見ている。鏡を媒介としてはじめて本来の姿が露わになったのである。
『枕草子』の翁まろの挿話は、日用品の鏡が、ただ目の前の世界を映し出すだけのモノを超えて、人の目にはみえていない世界の真実を映し出す例として読める。平安宮廷では、鏡は日用品であると同時に神秘性も認められていたといえるだろう。
『更級日記』で、長谷寺参りのために、母親が参拝の代理人に「一尺の鏡を鋳させて」持って行かせたのは日用品としては大げさすぎるぐらいが、神をそこに宿らせるための鏡としてちょうどよいということなのだろう。この鏡は予言者となって、僧の夢の中で、『更級日記』の作者が「ふしまろび、泣きなげきたるかげ」を映し出して作者の未来を予言する。
 あるいは『源氏物語』によれば、宮廷内の内侍所には神鏡が置かれていたというから、神を祀ることと、鏡を祀ることとが一つのこととして考えられていたことも確かである。とはいえ、鏡が神だというわけではないのである。鏡を置いて神の姿を想像しろと言うのは無理というものだ。どうみてもただの姿見にみえるからだ。だから鏡を「神鏡」としてみせる場合には、そこに神を呼び寄せる巫覡が必要とされるのである。巫覡は、鏡の上に神を呼びこんで会話をしたり、神を自身に憑依させて神のことばを語ったりする。このことは別なことのようでいて、同じことである。というのも鏡のなかに神の姿を呼び出す場合、鏡は目の前にいる人を必ず映し込んでしまうのだから、実際には、そこには巫覡の姿を映ることになる。つまり鏡を用いた場合も、巫覡自身に神の憑依させたときと同じように、巫覡の身体が神を表象してしまうことになるのである。神を呼ぶものに神が憑依するのならば、神を呼ぶ儀式において、神と巫覡との境界はなくなって、いきおい巫覡が神のようにみえてきてしまうということになる。そのように考えると、神を映す神鏡は、鏡を媒介として向き合う二者が神と巫覡という異なる二者であるのにもかかわらず、同一のものに溶解させるモノとしてあることになる。