鳳暁生と「王子様」の呪い
鳳暁生は星が好きだと言い、プラネタリウムを好む、少年のような部分のある男性であった。本当の意味で「大人」になることのできないまま、「少年の心」と言えば聞こえの良いたっぷりの感傷と自己憐憫を抱えている存在こそ、彼であった。
偽物の星――本物の星をとうに見失った彼は、小さな世界で子どもたちに向かって権力を振りかざすことしかできない。「王子様」になんてなれやしないのに、「王子様」の立場を求められ、それに応えながらも、常に不十分でしかないことに飽いている。膿んでいる。
彼は自分を憐れんで嘆くことしかしないし、出来ないのである。
たとえば劇場版『アドゥレセンス黙示録』の鳳暁生は、妹に睡眠薬を飲ませてレイプした挙句、彼女が目覚めていたことに気がつくと動揺する。
到底「王子様」とは言えない振る舞いをせずにはいられない自分に、アンシーがなおも彼を責めようとしないことに動揺するのである。
彼を最終的に追い詰めるのは、アンシーが決して彼を責めようとしないからなのだ。
目を覚ましていたのか、自分がどんな酷いことをしているのか、どんな風に「王子様」にそぐわない振る舞いをしているのか知られてしまったのか、と動揺しながら、もしかしたら、彼は罰されることを待っていたかもしれない。「王子様」ではないと糾弾されることを望んでいたのかもしれない。
けれども、アンシーは決して彼を糾弾しない。「お兄様は私の王子様」と彼女はなおも言い募る。「お兄様は私の王子様、だから好きにしていいの」、そう言われてしまっては、もはや決して「王子様」から降りることができない。何をしたところであなたは私の「王子様」なのだと言われてしまう。許されてしまう。
それでは、もう「王子様」の出口はどこにもないのだ。
だから彼は、どう考えても加害者でありながら、自分を「被害者」だと思い込むのである。
アンシーの献身は、彼にとっては暴力でしかない。彼を「王子様」から降りることをますます不可能にしていくものでしかない。より強固な檻を作り出す、恐ろしいものでしかない。
だから彼は自分が虐げている当の人間に対して、「魔女め」などと口走ることができるのである。「お前を苦しめているのは俺じゃない、世界だ」などと言ってしまえるのである。
鳳暁生は救われない――少なくとも少女革命ウテナという物語の中で、彼の救済は描かれない。劇場版で死体となって見つかった鳳暁生について、その自死に至る絶望について思いやる人間は描かれない。アンシーが「花嫁」に徹し続け、それによって鳳暁生を救うことはない。この「花嫁」は誰にも革命されることがない。
けれども、ある意味ではそれしかなかったのだ。この「花嫁」は、救われないことによってしか救われない。なぜなら、アンシーが果てのない献身を捧げてくれる世界では、彼は自分にかけられた呪いが一体どんなものかさえ知ることができないのだから。
アンシーは「外の世界」へ出ていく。
なんと言ってもアンシーには、彼女の世界を革命してくれる女の子がいる。友達がいる。鳳暁生はその小さな世界に取り残される。「居心地の良い棺の中で、いつまでも王子様ごっこをしていてください」、そう言い残す少女の背中を見るばかりで。
日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。