私たちの生存戦略

第五回 少女革命とテロリズム

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

兄とテロルの物語:『輪るピングドラム』
自分が自分自身であることによって必然的に他者を損なってしまうとしたら、一体何が可能になるだろう? たとえば自身の恋愛感情の成就を、性的欲求の実現を見ようとすればそれが必然的に暴力として立ち現れるとしたら、どのように救われ得るだろうか?
妹を性的対象とする鳳暁生が抱えていたのは、自分が自分であることが他者を必然的に損なってしまう、いわば存在の罪とでも言うべきものであった。
この「花嫁」はだから、姫宮アンシーのように単に棺の中から出ることはできない。棺の外なんてないのだから。
自分の根本的要求を通すこと、自分であることそのものが倫理的に許されざる罪だとしても、人は自分であることを止めることはできない、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。『輪るピングドラム』のなかで、サネトシはこんな風に言っていた。人は「自分という箱から一生出れない」のだと(第二十三話)。
その箱は僕たちを守ってくれるわけじゃない、大切なものを奪っていくんだ、たとえ隣に誰かいても壁を越えて繋がることもできない、出口なんてどこにもない、誰も救えやしない、だから箱を、人を、世界を壊すしかないのだと。

『少女革命ウテナ』において、ピンクの髪をした革命者は棺の中に閉じ込めた少女を解放する者であった。規範に縛られ、役割を押し付けられ、彼女の意思を顧みられないことで苦しめられていた少女にとっては、「自分自身になる」ことこそが解放であった。
その解放は「少女革命」、彼女が自分自身になるための「革命」であったのだ。
けれども、『輪るピングドラム』に登場するピンクの髪をした革命者は、半分はテロリストの姿をしていた。サネトシと呼ばれるその人物は、「世界を壊す」しかないのだと考え、実際にそれを部分的に実行してしまった。
そしてもう半分、物語に登場するもうひとりのピンクの髪の革命者とは、自己犠牲によって苦しむ人を救う、キリストのような救い主であった。荻野目桃果と呼ばれるこの人物は、物語の中でサネトシの分身として扱われている。サネトシは桃果を「僕と同じ種類の人間」だと呼び、けれども同じ風景を見える唯一の存在である彼女に自分を否定されてしまったと語っていた(第十三話)。
要するにこの物語における「革命」は、テロリズムと表裏一体の自己犠牲としてのみ存在しているのだ。
というのはもちろん、ここでは「自分自身になる」ことが解放たり得ないからである。自分自身として存在することの罪こそが、主題になっているからである。
妹の解放には少女革命が必要である。けれども兄の、鳳暁生に至らないための兄の解放とは、少女革命では成し遂げられない。そこでの解放は、「自分という箱(棺)から一生出れない」という前提のもとでのみ存在する何かなのだから。

自分という箱から出られないのであれば、一体どうすればいいのか?
その出口のなさは一方で、自身の存在の罪に対する認識から、自己および他者の抹消(テロリズム)へと至る。他方で、これまでの自分自身、存在そのものが罪であり他者を害するようにしか思えない自分のあり方を根源的に変革する、浄化としての自己犠牲へと至るのだ。それはコインの裏表のように、危うさと隣り合わせのものである。
自分自身であることが他者を必然的に害してしまう、そんな存在であることの「浄化」とは、自己を徹底して他者のために犠牲にすることに他ならない。
だからとりわけ冠葉は、妹のためにその身を呈して奔走する。彼女のために幾度となく傷だらけになる。冠葉だけではなく妹に愛される存在としての晶馬もまた、最終的に他人のためにその身を犠牲にする。
どのような仕方であれ、兄と妹の近親姦の「成就」は否定され、ただ自己犠牲――テロリズムとよく似た――へと駆り立てられる。
存在することの罪は、徹底してその存在を他者への献身へと捧げることによって浄化される。これは死のようでいて、死ではない。それは異なる仕方で存在するため、新たなる仕方で存在するために選び取られた道、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、であったのだ。

なぜ『輪るピングドラム』はテロリズムと表裏一体の自己犠牲の物語だったのか? 
それは「兄」の解放のため、少女革命が通用しない存在のために用意された道が、おそらく他になかったからである。「居心地の良い棺の中で、いつまでも王子様ごっこ」をすること以外に道を選ぶとしたら、棺=箱そのものを破壊する他なかったからである。