私たちの生存戦略

第五回 少女革命とテロリズム

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

冠葉と晶馬――破滅に至らない兄
鳳暁生は救われない――少なくとも、妹に性暴力をふるうような大人になった彼が救われる道は『少女革命ウテナ』では用意されていない。
それでは、彼がまだ子どもで、決定的な暴力をふるうこともなく、むしろ妹のためにその身を犠牲にしてやまない存在だったらどうだろうか?
この意味で『輪るピングドラム』は、「鳳暁生」という破綻に至る前の彼を、兄を、その解放を描く物語として受け取れるものである。
物語の主人公は、冠葉と晶馬という二人の「兄」である。
冠葉は妹の陽毬を性愛の対象として愛している存在で、晶馬は妹の陽毬に「運命の人」として愛される存在である。
ここでも妹と兄の「両思い」は徹底して禁じられている。冠葉には彼を愛する実の妹の真砂子がいるが、冠葉が妹としてではなく愛するのは真砂子ではなく陽毬である。

そして晶馬は、性愛が取り除かれた人物として描かれている。
物語には晶馬の友人として、顔が決して映らず、後姿のみによって描写される山下洋介なる人物が登場するが、この人物が常に語るのはセクハラめいたことである。彼は道ゆく女性を見てはその魅力を語り、性的な眼差しを向ける。彼の人格も、晶馬との友人関係もまるで描かれず、彼は晶馬の傍にある影としてのみ登場している。
それはすなわち、晶馬の性愛的関心は山下洋介という人物に仮託され、外部化されているということである。
晶馬は荻野目苹果なる少女の裸や、性的な場面に幾度となく出くわすが、彼は決して恥ずかしがるそぶりも見せず、苹果に性的な関心を向けることもない。もちろん陽毬を性愛の対象として見做すこともない。
というより、彼は誰に対しても性愛的な関心を傾けることがないのだ。彼の性愛的関心は、山下洋介の形で外部化され、すでに取り除かれているのだから。
冠葉と晶馬――それは「妹と兄の近親姦」を鳳暁生のような暴力性を持たずに表現するために、注意深く「両思い」や性愛的関係の可能性を排除して形作られた「兄」の姿である。
もちろんこのことは、『少女革命ウテナ』において棺の中に取り残される鳳暁生を描く姿勢と同様の、禁欲的な倫理の現れである。倫理は呪いを解くために必須のものである。
でなければ解放などない、単に一方的な暴力になるほかないのだから。