私たちの生存戦略

第六回 壁を超え、続いていく人生を生きる

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

百合城銀子という「その後」
とはいえ『ユリ熊嵐』と『輪るピングドラム』の主題は異なる。
むしろ『ユリ熊嵐』は、『輪るピングドラム』で描かれた物語のその後を描いているのだ。
たとえば『輪るピングドラム』では、時籠ゆりと多蕗桂樹という人物が登場していた。二人はそれぞれ、幼少期に親から虐待され、愛されず、傷ついた子どもたちだった。
二人は荻野目桃果という、親の呪いから解放してくれるいわば救い主のような存在に出会うものの、彼女が亡くなってしまったことで、再び苦しみの中に引き戻されてしまう。一度は救われたにもかかわらず抜け出せない、それがこの二人であった。
だが物語の終盤、二人はついに再び脱出の道を得る。
たった一度でも良い、誰かに愛された記憶があれば、たとえ全てを奪われたとしても、きっと幸せを見つけられるのだと。そんな風に思えるようになるのだ。
だからこの二人を通じて『輪るピングドラム』が描いたのは、容易には抜け出し得ない呪いの強固さであると同時に、それでもなお出口を探り続けられるという、希望であったのだ。
そして『ユリ熊嵐』に登場する百合城銀子はある意味で、ゆりと多蕗のその後の姿である。すでに一度救われていて、だからこそその後どう生きるかを模索する――百合城銀子に賭けられているのは、そんな『輪るピングドラム』以降の人生そのものである。
クマである銀子は孤児であった。
家族を持たず、孤独に生きる銀子は、ある時奇妙な宗教組織に入ってしまう。クマスターなるクマが君臨するこの組織は、「いらない子ども」を集め、クマリア様だけが承認を与えてくれるのだと説き伏せてこの子らを戦士として使役するものである。クマの側から見れば人間こそが「害獣」であり、だからこの人間を排除しなければならないのだと。人間を排除することで、クマリア様から承認が与えられるのだと。
寓話めいているものの、これは明らかに危険な組織である。
それは『輪るピングドラム』で描かれた、テロルに至る集団(ピングフォース)を連想させもする。『輪るピングドラム』は家族を描く側面とテロリズムを描く側面があったが、『ユリ熊嵐』ではクマスター様の集団によってそれが一挙に描かれる。
すなわちテロリズムに至る危うい組織と家族の問題は、この世界と自分自身への否定なるものとして関連づけられて捉えられている。世界を浄化しようとして起こすテロリズムと、自己犠牲以外に存在を贖う道を見出せないような家族の呪いとは、繋がっているのだ。
さて、戦士として戦場に駆り出され、傷を負って倒れ臥す幼い銀子を救ってくれた人物が、椿輝紅羽である。条件付きの承認を与える危険な組織ではない、ただ銀子のことを愛し、思いやってくれる存在――それこそ紅羽だったのだ。
紅羽に救われた銀子は、成長後、クマの世界から人間の世界へ、断絶の壁を超えて紅羽に会いに行く。だが、成長した紅羽に再会することは出来たものの、彼女は銀子を忘れてしまっている。まるで『少女革命ウテナ』や『輪るピングドラム』のラストで、救いがもたらされたのちにはその人の記憶が周囲から消えてしまっていたように。
記憶が消えること――それは、これまでとは異なる仕方で存在できるようになったという、他ならない変化を示すものであった。ただ『ユリ熊嵐』が描くのは、忘れ去られてしまった以降、救済が訪れた後の世界なのである。
つまり『ユリ熊嵐』の主題は、救済そのものではない。
すでに一度は救われている、けれどもその後も続いていく人生をどう生きるのかという問題こそ、『ユリ熊嵐』は描こうとしていたのだ。