私たちの生存戦略

第六回 壁を超え、続いていく人生を生きる

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

続いていく人生をめぐる物語:『ユリ熊嵐』
人生は続く。たとえ世界が革命されたかのような大きな変化が訪れても、一度死んで生まれ変わるような「運命の乗り換え」があったとしても、その後も日々は続いていく。
だからすでに一度救われ、存在の肯定に踏み出したとしても、なおも自分自身であることは困難であり得るのだ。
自己犠牲によって存在の罪を贖う必要はもうないかもしれない。だがこれまで生きることそのものを罪のように感じてきた人は、どうしたら罪ではない仕方で「自分」であることを知れるだろう。自分を生きるとはどういうことか、まずそこから始めなければならない。
前作『輪るピングドラム』は、愛される=選ばれるか否かによって生き残れるかどうかも決まってしまうような、存在していることをまずもって証明しなければならないような状況に置かれた子どもたちの物語だった。だから問題の中心は何より「選ばれる/選ばれない」という二分法にいかに抗うかであって、その後どう生きるか、、、、、、、、、は問われていなかった。
けれども、『ユリ熊嵐』では「断絶のコート」なるものが登場し、常に登場人物は何を選択するのか、どう生きるのかを問われるのだ。
クマである銀子らが「あなたは透明になりますか、それとも人間食べますか」と問われる時には、自分を否定して同調圧力に屈するか、それとも排除される危険性を犯しても自分であり続けるかを問われている。
あるいは、「スキを諦めますか、キスを諦めますか」と問われる時には、その人にとって、愛することと愛されることではどちらがより根本的なのかを問われている。
つまり問われているのは常に、どう生きたいかである。
問いが先に進んでいる――このことを考えれば、『輪るピングドラム』では「子どもブロイラー」と共に登場した「透明」という言葉が、『ユリ熊嵐』では「透明な嵐」としてまた異なる仕方で登場している意味も明らかになる。
親と子という圧倒的な非対称性のもとで、親から愛されないことは時に子どもの生存さえ脅かすものになり得る。愛されないことは「生き残る」子どもには選ばれないことであり、子どもブロイラーはそんな「選ばれなかった子ども」の行く場所であった。子どもブロイラーでは「透明」にされてしまう、「誰が誰だかわからなく」されてしまうという。
要するに子どもブロイラーにおいて「透明」になるとは、存在を剥奪されることなのだ。
けれども、すでに一度救われた=選ばれた後を描く『ユリ熊嵐』に登場する「透明」は、また別の意味を持っている。物語では、「空気を読まない」存在を排除する、学校内でのイジメが「透明な嵐」の例として登場していた。つまりこの物語に登場する「透明な嵐」とは同調圧力であり、自分が自分として生きることの放棄を意味しているのだ。それは生存そのものをめぐる問題というより、「生き方」の問題である。
存在の剥奪から自分自身を生きることの放棄へ――「透明」という言葉には、『輪るピングドラム』から『ユリ熊嵐』に至って問いがいかに前進しているかが、端的に表れている。