鏡を砕き、あなたに出会う
改めて、自分を生きるとは何か?
その後も続く人生を描く『ユリ熊嵐』が図るのは、自分自身を生きることとエゴイズムの差異化である。
愛された子どもは、きっと幸せを見つけられる――そう語ったゆりと多蕗のその後を生きる銀子は、傲慢の罪を抱えていた。
銀子を忘れた紅羽は、別の女の子(純花)と出会い、新たに彼女を愛していたのだ。嫉妬に苦しむ銀子は、純花に迫る危険を知りながらそれを放置し、結果として彼女の死に加担するという、大きな罪を犯してしまう。
紅羽が新たな愛を知ることを許せずにいた銀子はまるで、荻野目桃果という唯一無二の存在に執着してやまないゆりと多蕗のようでもある。実際、深く傷ついたからこそただひとりに執着してしまい、バランスの取れた愛情関係を持てないことはままある。
何しろ彼女たちは、存在の否定から肯定へと足を踏み出したばかりなのだ。だから自分自身であることが、他人を害するほどにひとりの存在に執着することに帰結してしまうことはある意味ではやむを得ない。けれども生き続けるなら、本当の意味で他者に出会おうとするなら、人を害さない形で「自分を生きる」ことを学ばなければならない。
それは自他の境界を学ぶことである。自分の身の内に相手を飲み込んでしまうような、自分の要求を貫くあまり相手を支配することを望むような、エゴイズムから脱出することである。そのためにこそ、銀子は欲望の赴くままに振舞おうとする側面――それは蜜子というキャラクターを通じて具現化している――に別れを告げるのだ。欲望を失った獣は死ぬと蜜子は叫ぶ。けれども、銀子はエゴイズムに限りなく近づく「欲望」とは別の愛を見出すのだ。
それゆえこの物語は、自分が映った鏡を打ち砕く。
自分が映った鏡を打ち砕くとは、他者を「鏡に映った自分自身」のように扱わないということである。自分とは全く別の存在として出会い直すということである。鏡に映った自分を見るように他者を扱っていては、壁は超えられない。だからまるで異なる存在と手を取り合うために、あなたに出会うために、物語は鏡を砕くのだ。
けれども、エゴイズムは問題にしても、欲望は生きるための根本的なエネルギーであって、単に否定されるべきものでもないのではないか――そんな疑問を感じる向きもあるかもしれない。自分自身を生きるためには、欲望を肯定することもまた必須ではないかと。
もちろん、だからこそ『ユリ熊嵐』の次には『さらざんまい』があったのだ。
欲望を手放すなと、欲望こそは君の命だと語る、『さらざんまい』があるのだ。
全ては存在の肯定へと向かっている。人生は続き、問いも進む。『輪るピングドラム』も『ユリ熊嵐』もあなたと共にある。物語は、他ならないあなたに届けられている。
あの壁を超えて、続いていく人生を生きるためにこそ。
日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。