料理人という仕事

修行って必要?

料理人・飲食店プロデューサーの稲田俊輔さんによる「料理人という仕事」。第2回のテーマは「修行」です。料理の仕事に限らず、いずれ独り立ちする仕事の多くは修行期間が必要となるでしょう。でも、その「修行」はほんとうに必要なのでしょうか? 会社員ではない働き方を考えている人には刺さること間違いなし。

修行は必要なのか
「修行って本当に必要なんですか?」という質問を受けることがあります。
最近では、10年以上かかるとも言われる寿司の修行を、2ヶ月のカリキュラムに圧縮した「寿司アカデミー」なども話題です。修行に10年もかけるのは無駄ではないか、単に修行の名目でいいようにこき使われるだけなのではないか、そう思っても不思議ではありません。
 ならば修行は不要なのか。結論から言うと、私の考えとしては、やっぱり必要だと思います。本当に10年必要かどうかは考え方次第だとは思います。しかし不要とはとても言えません。なので今回は、「修行ってなんだろう」ということを考えていきたいと思います。

 そもそも修行の目的とは何なのでしょう。多くの人は「おいしいプロの料理を作れるようになるため」と考えているのではないでしょうか。先述の寿司アカデミーの公式サイトにも「魚をさばき、寿司を握り、美しいお造りを盛る技術が2ヶ月で習得できます」という説明がまずあり、そこから「もっと知りたければ入学相談に参加してください」という流れになっています。誰もがまずは調理技術の習得を念頭に置いているからでしょう。
 しかし先に私の考えを述べておくと、少なくとも現代においては、「調理技術の習得」は必ずしも修行における最優先マターではないと思います。しかし確かに昔はそうだったし、もちろん今もそれは一部では引き継がれています。どういうことなのか、話をわかりやすくするために、少し極端ですが思い切って昭和初期あたりの時代にまで遡ってみましょう。

昭和初期における料理人の立ち位置
 当時の普段の食事は、今よりずっと質素なものでした。あくまで米や雑穀が主体で、いわゆる「おかず」は、野菜や魚をごくシンプルに調理したもの。調理のバリエーションは極めて少なく、調味料も味噌、塩、醤油を中心にごく限られたものだけ。ただし素材だけが季節ごとに移り変わっていきました。季節ごとに旬のものだけを素材を生かした伝統的な調理法で食べていたわけです。それはある意味豊かとも言えそうですが、少なくとも今の食生活とは全く異なります。
 では当時の外食はどうだったか。もちろんこちらも今の外食と比べれば、はるかに素朴で、バリエーションもやはり雲泥の差です。とは言え当時の家庭料理に比べれば、まだ断然、現代の食生活に近いものがありました。当時の外食の花形は「洋食」です。カツレツやオムライスなどの洋食は、今でこそ「懐かしの」などという惹句がつけられた素朴な食べ物というイメージがありますが、当時としては最先端。そしてそれは家庭ではまず食べられない物でした。だからこそ花形だったと言えます。
 つまり、外食の料理を作れるのは(「料理教室」に通える一部の上流階級の奥様方を除けば)プロのコックさんや板前さんだけだったのです。逆に言うと彼らは、自分たちだけしか持っていないそのノウハウを独占することで、その地位を保っていたとも言えます。
厨房に入ってきた新入りに、親切に料理を教えることはありませんでした。レシピを見せるなんてもってのほか。ソースを作った鍋にはすぐに洗剤と水を注いで他の誰も味見できないようにした、なんて話も聞きます。ちなみにごく最近聞いた話では、インドではまだそういう風潮が多少残っているそうです。インドは外食産業成立の経緯が少し特殊だったため、今でも家庭料理とレストラン料理が大きく異なり、かつての日本と少し似た状況ということなのだと思います。
 そんな中で新入り君がどうやって料理を学ぶのか。端的に言うと「見て盗む」ということになります。実際は長く働く中で信用を得たら、先輩も少しずつ勘所を教えてくれるようなこともあったのでしょうが、いずれにせよ非効率極まりないことは確かです。修行に長い年月がかかったのには、こういう事情もあったのでしょう。

誰もが「おいしい料理」を作れる時代
 私は50年以上続くようないわゆる「老舗」について、色々なお店の方に直接取材したり、資料を調べたりといったことをしたことがあります。その創業期、つまり1960〜70年代の話を伺っていると、その時代もまだまだ戦前のような感覚は続いていたようで、少し驚かされました。
 あるフランス料理のコックさんは、先輩が「洋行帰りの進歩的な考えの持ち主」だったために、最初からちゃんと料理を教えてもらえてびっくりした、と語っていました。その時代でもまだそれが特別なことだったなんて、びっくりするのはこっちの方です。
 またある喫茶店では、メニューに「サンドイッチ」を入れるにあたり、知り合いづてで方々をあたって、経験豊富な洋食コックさんをなかなかの高給で雇い入れたそうです。今の感覚であれば「サンドイッチなんてそんなことしなくても誰でも作れるのに……」と思うかもしれません。
 もちろんサンドイッチだって相当奥が深く、適当に作ったものと技術のある人がちゃんと作ったものは大違いです。とは言っても、現代のカフェで、フランス料理のコースとかならまだしも、サンドイッチを出そうと考えた時に、そのためにわざわざプロのシェフを雇うでしょうか。おいしいサンドイッチを作るためのノウハウや食材は世に溢れており、お手本となるようなサンドイッチを売っている店もゴマンとあります。最低限のセンスと意欲があれば、おいしいサンドイッチを商品化することはそう難しいことではありません。しかし当時、それにはプロが修行を通じて得た技術とノウハウが必要という考え方は、まだまだ一般的なものだったということなのでしょう。
 現代では、もちろんサンドイッチに限らず、おいしいものを作るためのノウハウは世に溢れています。ネットの情報はいささか信頼性に欠けることもありますが、書籍として出版されるものは何人ものプロフェッショナルによる精査を経ているのが普通で、それが入門書から専門書まで様々なジャンルを網羅しています。現段階ではあくまで補助的なものですが、動画コンテンツも日々充実していっています。「プロが手の内を明かす」ということはもはや当たり前のことになりました。
 例えばカレーやラーメンの世界では、すでに「修行」をほとんど経ない独立出店が相次いでいます。これはそれらが、独学に向いたジャンルだからということもありそうです。とあるラーメン店の店主は、マニアが嵩じ、有名店での短期間の修行を経て独立を果たしました。その方はこんなことを言っていました。
 「有名店のレシピやノウハウなんてどれだけでも手に入るから、そういうのに似せてオリジナルのおいしいラーメンを作るなんてそう難しいことではない。一応名店で修行させてもらったのは、ここだけの話だけど、その店出身という肩書きが欲しかったから」

 これ以上例を挙げるのはやめておきますが、カレーやラーメン以外にも独学と相性のいいジャンルは色々と存在します。レシピやノウハウ、テクニックが、言語化・システム化しやすいタイプの技術と言えるでしょう。
 しかしやっぱり、そうでないものもあります。少し例を上げるなら、フレンチにおける肉焼き、石窯を駆使するナポリピッツァ、洋菓子やパン、こういったものは、ある意味スポーツや工芸にもにた、言語化しにくい身体能力的な技術が求められます。
 しかし今や洋菓子やパンは、一般向けにも高度な内容の教室があります。ナポリピッツァの技術は、石窯のメーカーさんが懇切丁寧に指導してくれます。フレンチの精緻な肉焼きは、調理器具の目覚ましい発達により、それに限りなく近いものが簡単に再現できるようになりました。そして、そういった身体的技術の最たるもののひとつとも言える「寿司」にすら、それを2ヶ月で習得するシステムが生まれた。これが現代の状況です。

現代における「修行」の意味とは
 さてここまでは、「いかにおいしい(≒プロレベルの)料理を作るか」という話でした。散々書いてきたように、昔に比べると、そのハードルは極めて低いものになっています。もちろんそれでも多くの人は、プロの作る料理は特別おいしいと考えています。もちろんそう思ってもらわないと、私自身も含めてプロは存在意義を失います。
 しかし、もはやおいしい料理はプロだけの物ではないというのもまた「不都合な真実」です。現代日本において、料理を「趣味」としてそれに没頭する人々の多くは、プロを凌駕するような料理を当たり前のように作ってしまいます。そのためのインフラは完全に整っている、というのが前段までの話でした。それは単なる自己満足とも言い切れません。収益性やオペレーションの制約からは逃れ得ない宿命にあるプロよりも遥かに自由度が高い分、それはむしろ高度なものにもなり得ます。
 しかし、その「おいしい料理」を単に「作る」だけではなく、同じ味で「大量に作る」「作り続ける」ということにおいて、そしてそのスピードや安定性においては、まだまだプロに圧倒的に分があります。そしてそれは、極めてシンプルに、経験の物量によって担保されます。ある意味変わり映えのない、毎日決まったものを作り続ける日々からしか、その経験は得ることができないのです。これが現代においても修行に意味がある理由のひとつです。

 しかし修行の本当の意味での大切さは、こういった調理技術そのもの以外の部分にある、というのが私自身の考えです。例えばお客さんとの接し方やトラブルの防ぎ方、それが起こってしまった場合にどうするかであり、例えばガスコンロが突然点かなくなった、冷蔵庫がいきなり故障した、といった機材トラブルの対処法であり、例えばなぜか急にお客さんが減り始めた場合の経営的な対策だったり……。
 ここでいくら例を挙げても、ひとつひとつは「なんだ、そんなことか」としか思えないかもしれません。「それはその都度その都度、常識的に考えて切り抜ければ良いのでは?」と。確かにそれはそうなのですが、飲食店というものは、そんな些細なトラブルの連続なのです。過去にそんなトラブルの適切な切り抜け方を、どれだけ実際に目にしているかどうかは、日々の営業をつつがなくこなしていく上でとても重要です。
 またそんな日々のよしなしごとの中で極めて重要なのが、お客さんとの接し方以上に、業者さんとの接し方です。飲食店における仕入れは、ネットショップで値段を確認して数量を決めてポチるようなこととは大きく違います。互いに尊重し合い、仲良く、ただし譲れない部分は決して譲らない、そういうプロフェッショナル同志の関係性を築いていけるかどうかは、店の運命を大きく左右します。
 かつて修行の一番の目的があくまで「料理修行」だった時代に、そういったことは、長い修行期間の中で自然に身についていったことだったのだろうと思います。最初はこき使われるだけの「追い回し」だったのが、次第に店主や先輩の信頼を得て社会性を身に付け、お客さんにも可愛がられてその接し方の機微も学び、業者さんとも対等に渡り合えるようになって一目置かれ……。そこには綺麗事ばかりでなく確かに「搾取」もあったことでしょう。現代のコンプライアンスに照らせば理不尽なことだらけだったのかもしれません。しかしだからと言って、それを全否定する理由にはなりません。
 
 これは胸を張って言えるのですが、現代の飲食店は、かつてに比べれば遥かに働きやすい場になったと思います。私が「修行」を始めた四半世紀前、さすがに暴力は既に過去の(忌わしい)話となっていましたが、言葉によるプレッシャーや理不尽な処遇はまだまだ健在でした。最近ではそれも急激に減っています。教育と抑圧の境目は難しい問題ではありますが、少なくとも理不尽さとは無縁になりつつあります。端的に言えば全てが「優しく」なっています。もちろん給与や労働時間も(あくまで相対的にではありますが)確実に改善されています。
 なので、こんな状況下で「修行」を軽視するのは、むしろ単純に勿体無いというのが私の考えです。環境が優しくなった分、自分自身がそれなりに意識しなければ、つまり単に受け身なだけでは、何も身につかないという難しさはあると思います。だから、そこで自分のスキルアップのためにどれだけ能動的に、積極的になれるかが、修行の意味を高めもすれば無効化もする、ということだと思います。