昨日、なに読んだ?

File111. 聴いて読みたい本、読んで聴きたい本
曽我部恵一『いい匂いのする方へ』

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホやタブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。今回のゲストは、劇作家・演出家の山本卓卓さんです。

 読んだ本を人に紹介する、という気持ちになかなかならない。映画や音楽や演劇について、あるいは運動や温泉巡りや芋けんぴのおいしさについて、趣味の合う仲間に出会いたい感想を共有したいという欲望は常に私の中にあるのに、なぜだろう本だけがそういう気持ちにならない。このSNSの時代において御多分に漏れず情報をシェアしたい自己開示をしたいと思う気持ちの反面、自分の中にへそくりのように隠しておきたい財産が本なのだ。私にとって本は宝物であると同時に恥部のようなものでさえある。官能小説ばかり読んでいるとかそういうことではない。いかなるジャンルであれ自分が読んだ本をあけっぴろげるのはなんだかやっぱりちょっと恥ずかしいしもったいない気がしてしまう。私自身がその本を自分の血肉にし過去にしてしまうまで、言い換えればインスピレーションの深部を通過するまで(通過しなかった本ならなおさら)秘めておきたいという気持ちが働くのだ。だから執筆の依頼をありがたく思う一方で、昨日読んだ本を紹介するのには腰が引けていた。"昨日"の部分を無視してかつての読書歴から名作と呼ばれているものを引っ張り出し「昨日読みました」と偽ることもできるのかもしれない。正直大学生の頃に背伸びで読んだサルヴァドール・ダリの『私の50の秘伝』という本を「昨日読みました」と言って紹介するプランも一瞬私の頭をよぎった。でもこうして私の読書について興味を持ってくれる方から依頼されている以上、そのような随筆の装飾を施すことが申し訳ない気持ちになってしまうし、なによりこれから紹介する本、つまり昨日読んだ本がこちらのそうした悪あがきが恥ずかしくなるほどに赤裸々に言葉を紡いでいたのだ。だから本当になんの偽りもなく打算性もなく、ただただほんとうに昨日読んだ本をここに書こうと思う。その本に触発されて。

 曽我部恵一『いい匂いのする方へ』(光文社)。こうした前置きをしておきながらさらに赤裸々に付け加えると私は当初この本を「読んだ」わけではなかった。日課の運動をしながらAudibleで聴いていたのだった。今年の9月1日にリリースされたばかりで、朗読は曽我部恵一さんご本人によるものだった。この朗読が格別に良い。優しく柔らかく耳に心地よく痕跡を残しながら気取らない豊かな言葉たちが自分の細胞を流れていく。公園を走りながら、9月になってもほかほかご飯の湯気でも浴びているかのように暑い汗だくのいつものコースで、自分の家族のことやかつての恋人のことやいなくなってしまった仲間のことなどを想いながら視界を通り過ぎていく見慣れた木々や陽光や池の波紋は、著者の声色に共鳴して昨日よりも美しくもあり楽しくもあり寂しくも映った。そして著者が感じていただろうかつての痛みと、今ある自分の痛みとを照らし合わせながら一歩一歩確かめるように道を進んだ。私は朗読を聴いて気に入った本は書籍でも買う。反対に書籍で読んで気に入った本は朗読でも聴く。私は演劇作家なので耳で聴く言葉と目で読む言葉との違いを知ることに貪欲なのだった。戯曲を書く、あるいは読解することは、つねに書かれた言葉を音声化する能力と欲望が必要だからだ。

 で、こうしたプロセスで『いい匂いのする方へ』は昨日、書籍として私の手元に届き読まれた。数日後にツアー公演で豊岡へ行くその合間。ここぞとばかりに映画や演劇を観たり人に会っているその合間。正直最近、人を信じられなくて漠然と落ち込んでいたその合間。そんな時の読書。「見る人の中に感情があるから感動が生まれる。感動を与えるのはぼくではない。ぼくはただ、全力でやっていたいのだ。」著者の人肌が、文体から伝わる。全力で「あるがまま」でいようとする文体は、耳で聴いていた時よりもソリッドにこびりついて海馬に残る。「つまるところ、笑顔が最強、という結論。」耳に流れていた優しい言葉と、目に留まるソリッドな言葉、その両方でこの本を味わいながら、気がつけば私は著者が本書で紹介する北山耕平さんの『自然のレッスン』という本をAmazonで注文している。明日届く。こうして芋づる式に書棚に本が増えていくのが常だ。Audibleは川上未映子さん『黄色い家』を聴き始めた。これもすでに書籍で買って読んでいた。ああほらいささか赤裸々すぎた。すべて本の影響だ。


*山本卓卓氏の第66回岸田國士戯曲賞受賞作『バナナの花は食べられる』が、
9/15~17に豊岡演劇祭で、9/22~23に札幌で上演されます。
チケットなど詳細は、こちらをご覧下さい。

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曽我部 恵一

いい匂いのする方へ

光文社

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