昨日、なに読んだ?

File125.かかわりの中で「食べること」を、取り戻す本
磯野真穂『なぜふつうに食べられないのか――拒食と過食の文化人類学 』

各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。今回のゲストは、『文學界』で連載中の「『ファット』な身体」が注目を集めている、アーティスト・看護師の津野青嵐さんです。

 ダイエット中のランチのため、コンビニに売っている「良い食べ物」のサラダパックを選ぶ。コンビニ食品のほとんどは、表面にデカデカとカロリーが記載されていて便利だ。量の割にカロリーが一番低いものを選んで購入する。そもそも野菜は嫌いなので、痩せるために仕方なく食べている。美味しさよりも、自分が身体を管理できていることに満足する。

 緊張感の強い組織で働いた日の終わりには、ついついコンビニで「一番悪い食べ物」を選び、大量に購入する。カロリーの高そうな肉系の弁当、バニラアイス、ケーキ、レジに売っている揚げ物などだ。カロリー表記を気にせずランダムに選ぶ。帰宅し、誰もいない部屋でYouTubeを開き、意味の薄い刺激の強い動画を流しながら購入した食べ物を一気に食べる。そして、しばらくしてトイレへ駆け込み、全部吐く。これは、硬直していた自分の身体を解きほぐすために、10代の頃から時々行っていた秘密の儀式である。

 食べること。それは私にとって最高の快楽であると同時に、底なし沼のような恐ろしさを孕んでいる。私がふつうに食べられないことをはっきりと自覚したのは、たしか中学生の頃だった。幼い頃から肥満体型だったので、思春期に受けた他者からの視線や言葉に傷つき、痩せるために過激なダイエットをした。先に書いたコンビニでの食体験はダイエットを始めた中学生の頃から少しずつ始まり、数年前まで続いていたものだ。

 『なぜふつうに食べられないのか』は、文化人類学・医療人類学者の磯野真穂氏による、「ふつうに食べる」がうまくできなくなってしまった6名の人々――「摂食障害」の当事者たち――へのインタビューとその分析、考察が記されている。数年前、自分と同じような苦労を持つ人々の経験が気になり「摂食障害」について探っていたところ、タイトルに惹かれて出会った。今では、私にとってかけがえのない、大切な本の一つになっている。

 これまで「摂食障害」に関する専門家による解釈は、主にその問題・原因を個人(あるいは母子関係)の中だけに言及し、彼らを取り巻く社会・文化的側面が軽視されていた。磯野氏は、それを「還元主義」として批判的に捉えながら、食べることが人と人との「かかわり」の中で行われることに目を向け、食体験の側から見た新たな解釈で摂食障害を論じている。

 私は食べ物を目の前にした時、ダイエットで培ったあらゆる知識を用いて、評価してから食べるという癖があった。たとえば、カロリー、栄養素、食べる順番による血糖値の上昇スピードなどを考え、許容できるかどうか、あるいは秘密の儀式前提の食事にするかどうかを検討するといった具合だ。食事の際は常にそういったことが頭を取り巻き、私と食べ物との関係は、硬直と強制的な融解を繰り返していた。この本に登場する人々も、私のように食べものを「良い」「悪い」で評価し、緊張した関係を築いていた。しかし、私は磯野氏のこの言葉によって、ずっと変わらないと思っていたその関係が、ゆっくりと解けていくような、そんな感覚を得た。

"食べることの本質は科学的な数値の中にも、専門家の著書の中にも存在しない。食べることの本質は人と人との具体的なつながりの中に存在するのである。"

 最近、この言葉の意味を日々実感している。それは、在宅介護を受ける祖母と同居をしはじめてからだ。野菜好きの祖母を中心に家族の食事を作るため、近所のスーパーや八百屋に売っている旬の野菜たちを選ぶ。フキ、タラの芽、菜の花、蕨。祖母に購入した野菜を見せると、若い頃に暮らしていた長野の山の麓での食生活を思い出しながら、ベストな食べ方を教えてくれる。

 「あらまあ懐かしいわ。私が小さい頃、フキの畑を作ったわ。よく灰汁を抜いて薄味で煮るとね、とても香りが立って美味しいの。」

 幼い頃からおばあちゃん子だった私にとって、それは本当に嬉しい時間でもある。祖母のために作り、一緒に食べる野菜料理は、我ながらとても美味しい。かつて痩せるために仕方なく食べていた野菜が、全く違う意味に変化して私の口に運ばれているのだ。気づけば、秘密の儀式が必要なくなっていることも不思議だった。少しずつではあるが、食べることの意味を、遠い誰かの決めた価値の中ではなく、自分の大切な人々との日常の中に取り戻せているような、そんな気がしている。

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