何か滑稽な行動を取るたびに、わたし以外にいまわたしとまったく同じ行動をする人ははたして同時に存在するのだろうか、ということをよく考える。
プッチモニの「ちょこっとLOVE」を聴きながら涙を流している人はいまこの世にいるのだろうか、とか。どうにも元気が出ずに、ふと思い出して聴いたら懐かしくて、小学生だったあの頃がとおくて、気づけば腕を組んで目を閉じながらはらはら泣いていたのだった。
あるいは今日のこと。子どもにせがまれてチュッパチャップスの包みを剥いてやろうにも、まったく剥がれずに手こずる。しかも雨の中、傘もさしている。子どもは早く早くと急かす。でも全然剥がれない。なんでこんなにびっちり糊づけされているのか。子どもには到底無理だろう。どうなっているのか、チュッパチャップス。
永らく友人に借りたままの『ムーたち2』(榎本俊二)に、まさに考えていたとおりのことが描かれていたので驚いたのだった。
突然あらわれた半裸のサンタ姿の男が差し出した「今この瞬間にボクと同じコトしてる人間が世界に何人いるかわかるマシーン」。主人公の少年ムー夫はそれを使って己の唯一無二性をたしかめようとする。けれど、「ザ・パーマズの『ボーン・トゥ・ビー・ボーン』を聴いている人」も「『ボーン・トゥ・ビー・ボーン』をヘッドホンで聴きながら道ですべって転んだ人間」もどうやらいまこの世界に存在するらしい(マイクにセットされたちいさな地球儀のようなものが、その人間の存在を光でしらせる)。どんなにコアなことにも、どうやら同士がいる。腕を組んで泣きながらプッチモニを聴いているのが自分だけではないのだとしたら。心強いような、つまらないような、どうにも変なここちになる。
あるいは「選択地獄」という回。ムー夫は自転車で行き当たった分かれ道で、はたと立ち止まる。しばし考えてから左を選んだ末、「もしこれで事故にでもあったら右を選べばよかったって後悔するんだろうな」とつぶやく。帰宅して母に話すと、ドアノブに手をかけようとしていた母の動きが止まる。そのまま二人してまったく動くことができないまま、日は暮れてゆく。
ほんとうに、ふだん意識しないだけで生きることは選択の連続である。人生の岐路に立つときはもちろん、そうでないときでさえ、電車に乗る時刻、昼に食べるもの、その日に履く靴、わたしたちは何かを選んでいる。もしも些細なその選択が自分の運命を決定づけるような何かに繋がるのだとしたら。もしもあとほんの少し遅ければ(早ければ)。ほとんどそれは偶然で、もうそんなのどうしようもなくて、そんなことを考えてしまったら手も足も動かない(そして日は暮れる)。だから、わたしたちはそれについてなるべく考えないようにしている。
読みながら、すごい、うわ、え、と脳内でほとんど叫んでいた。これがあの榎本俊二……。そうか、友人はきっとこれはまさにわたしのためにある、と『ムーたち』を貸してくれたのだ。よくわかってる、ほんとにすごいよ榎本俊二。いまは離れて暮らす友人とは、今度ある共通の知人の結婚パーティで会えるとわかっていたので、そこで返すつもりだった。借りたのはコロナ前だからもう五年越しになるだろうか。ずっと借りっぱなしでごめんなさい、でもすごかった、ドンピシャだった、ありがとう、と返そうと思っていたのに、当日早朝の飛行機に乗るためにばたばたしていたら、漫画を家に置いてきてしまった。
「『ムーたち』ずっと借りたままでごめんなさい! でも面白かった、すごかった。わたしが好きそうってよくわかりましたね? というかそもそもなんで貸そうと思ったの?」と興奮気味に話すと、友人は「いやぜんぜん憶えていない」という。パーティ会場のざわめきのなかで、その表情はいつもどこかきょとんとしているムー夫にすこしだけ似ていた。