昨日、なに読んだ?

File.123 ロシアの夜に開く本
奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を――文学を探しにロシアに行く』

各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。今回のゲストは、ロシア在住の美学研究者・井奥陽子さんです。

 あの本、あの絵、あの音楽にしか慰められない夜というものがある。心がどうにもざわついて、茫漠とした不安が全身にぐるぐる巻きついて、暗闇のなか身動きがとれなくなったときのことだ。
 歳を重ねるにつれて、そういうときにどの本、どの絵、どの音楽を試したらよいか、処方箋のバリエーションは増えてきた。けれどそのどれも効き目がないときは、ちょっと途方に暮れてしまう。
 途方に暮れた夜に見つけたのが、この本だった。奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を――文学を探しにロシアに行く』(イースト・プレス、2021年10月)。

 著者はロシア文学の研究者で、翻訳や時事的な記事の執筆でも活躍している。本書では、サンクト・ペテルブルクとモスクワに留学した時期(2002〜2008年)を中心に、幼少期から現在に至るまでのロシアにまつわる濃密な体験を語る。
 30篇にわたって、それぞれに強い個性を放つ人々との唯一無二の交わりが活写される。同時に、生活のなかに滑り込んでくる言論弾圧や排外主義、宗教をめぐる軋轢などが、透徹した眼差しをとおして綴られている。文学や歌がふんだんに登場し、文学や言葉についての、経験に裏打ちされた力強い見解もはしばしに記される。
 留学体験記というラベルでは捉えきれない一冊だ。尋常でない努力によって稀有な人生を歩んできた著者の自伝的エッセイであり、ロシア文学へのユニークな入門書であり、過去20年のロシアをめぐる一種のルポルタージュであり、静かな情熱を湛えた文学論であり、魅力的な文学作品でもある。
 著者のひりひりするぐらいの誠実さに、思考と言葉の豊かさに、胸がいっぱいになり、何度も涙が溢れた。