真夜中の、誰にも見られない透明な時間に、雪かきをするのが好きでした。カーテン越しに雪が降っている気配を感じとった夜には、家族を起こさないようにそっとコートを着込み、耳あてと手袋を身に着けて、外に出る。外は黒くて、雪は白くて、少しだけ青みを帯びていて、街灯の下がオレンジ色になっている。
スコップを雪に突き刺し、足で踏んで奥まで差し込み、持ち上げる。腰をひねって後ろに投げる。突き刺し、持ち上げ、投げる。降っている雪のひとつひとつの雪片が大きくてふんわりとしている時は、大気そのものが吸音材のようになって、あたりの音をすっかり吸い込んでしまいます。自分の呼吸の音と思考の音だけが誇張されて聞こえます。
雪は降りつづけているのだから、こんな時間に雪かきをしても朝にまた同じ労働をする必要があるのはわかっています。だけど雪の降る町に住んでいた十代のころ、真夜中の雪かきが好きでした。真夜中の雪かきは静かで、ひとりきりで、暗やみと冷気が心地良く、孤独だけどさびしくなかった。
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本の紹介をしなくてはいけませんね。先日、『ムーミン谷の冬』の前半部分をまたしても読み返していました。
ムーミン谷のいきものの多くは冬眠します。家の戸を閉めて、おなかをいっぱいにして、あたためておいたストーブの余熱に包まれて春まで眠る。素敵ですね。おなかに詰め込むのが森であつめてきた松葉という点については、いくらか調整の余地があるかもしれませんが、日本でも取り入れたい風習です。
だけどその年ムーミントロールは、家族が寝しずまる中ひとりだけ目が覚めてしまって、生まれてはじめて、というか彼の種族ではじめて「冬」を知ることになる。
冬は夏とはまるで違う。見た目も、なりたちも。
自分たち一家のものだと思っていた水あび小屋は、一年の半分は「おしゃまさん」と、姿を見られたくないから姿が見えなくなった「とんがりねずみ」たちのものだった。海で泳ぐこともないのだから、彼らにとってそこは水あび小屋ですらない。彼ら以外にも、ムーミン谷には冬に居場所をみつけた、名前や形のないいきものが他にもたくさん、たくさん、実はいた。
ムーミン谷って、住むにはまずうってつけの場所ですよね。そこでは誰もがちょうど良い塩梅で相手を受け入れていて、同調圧力はなく個人が個人として生きられるのだけど、ちゃんと共存もしている。トーベ・ヤンソンが書いたムーミンシリーズのどの本も好きです。
でもなぜだか昔から、そんなムーミン谷にさえなじめなかった、あるいはなじみたいと思わなかったひとたちがいること、彼らが冬に居場所をみつけていたこと、そしてムーミン谷では夏と冬との長さがちょうどおんなじくらいであることに、『ムーミン谷の冬』を読むたびに救われるのです。ムーミンシリーズの残りのぜんぶを足したのとちょうどおんなじくらいの価値が、個人的にはこの本にはあります。
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十代を遠くはなれて、雪の降る町からも遠くはなれた今でも時々、冬眠に失敗したひとのように真夜中に目が覚めて、雪かきをしたくなることがあります。あの頃、雪かきの夜は大気そのものが吸音材のようにあたりの音を吸い込んで、静かで、ひとりきりで、暗やみと冷気が心地良く、孤独だけどさびしくなかった。
そんな真夜中の雪かきを思い出した夜に、そっとこの本を手に取ることにしています。