昨日、なに読んだ?

File118.「コスパ」に心が冷えたときに読みたい本
松浦理英子『ヒカリ文集』

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホやタブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。今回のゲストは、『語る老女 語られる老女:日本近現代文学にみる女の老い 』や『テロルの女たち : 日本近代文学における政治とジェンダー 』などの著者で、日本近代文学がご専門の倉田容子さん(駒沢大学教授)です。

 世の中は「お得」な情報に満ちあふれている。どこを見ても大量の広告が目に入り、同じ商品でも購入する場所や時期によって金額やサービスが変わる。情報収集に精を出せば、いくらでも「コスパ」を追求することができる。
 しかし、これほど「お得」な情報であふれかえっているのに、「得をして幸せだ」と感じることは少ない。むしろ、見逃していたポイントやクーポンの情報を後から知って「損をした」と感じたり、「あっちのほうが安かったのに」と悔やんだりする。そんなとき、同時に、損得勘定に振り回されて一喜一憂する自分の滑稽さに気づき、がっかりすることもある。

 損をしないようにと気を張りつめて生きることは苦しい。では、損得勘定から自由になるにはどうしたらいいのか。現代社会の論理とは異なる「贈与」について考えることが、その糸口になるかもしれない。
 マルセス・モース『贈与論』は、贈与交換についての先駆的な研究として知られている。モースは、古代社会や同時代の「未開社会」においては、ある集団から別の集団へと贈り物をする義務があること、贈られたものを受け取る義務があること、さらにそれに対する返礼の義務があることを明らかにする。贈与や返礼は、無私無欲な行為として行われるわけではないが、かといって私たちの社会のように経済的な合理主義によって行われているわけでもない。贈与は、法、経済、宗教、道徳、美的感情など、社会のあらゆる領域や価値観と結びついているのだという。

 金銭と商品の交換を原則とする現代社会のあり方も、消費行動だけでなく、私たちの人間関係や世界に対する向き合い方にも影響を与えている。松村圭一郎『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)は、贈与が否応なしに人と人との関係をひらくことに着目し、いまの日本の社会の窮屈さについて次のように述べる。

 いまの日本の社会では、商品交換が幅を利かせている。さまざまなモノのやりとりが、しだいに交換のモードに繰り入れられてきた。それは、面倒な贈与を回避し、自分だけの利益を確保することを可能にする。厄介な思いや感情に振り回されることもなくなる。
 しかし、この交換は、人間の大切な能力を覆い隠してしまう。

 商品交換のシステムは、ただ私たちを損得勘定に駆り立てるだけではない。それは、コミュニケーションの基盤となる「共感」のような「思いや感情」を抑圧し、「なかったこと」にしてしまう。そして、このような交換のモードに慣れると、さまざまな「思いや感情」を伴う「贈与」が億劫になる。だが、その面倒臭い「思いや感情」こそが、人のあいだのつながりをひらき、窮屈な現代社会を変える鍵になると松村は言う。

 さて、前置きが長くなったが、交換のモードを解除するためのヒントは文学作品からも得ることができる。
 松浦理英子の『ヒカリ文集』(講談社)は、「面倒な贈与」に満ちあふれた小説だ。この小説は、賀集ヒカリという女性に恋をした劇団NTRの元劇団員たちが、それぞれヒカリとの思い出を戯曲や小説、手記など様々な形で綴り、約二年の月日をかけて完成した私家版の文集、という設定となっている(なお、元劇団員たちの性別や性的指向は様々であり、他の松浦作品と同様、この小説でもヘテロセクシズムは明確に退けられている)。

 ヒカリは稀有な魅力をもった女性であり、元劇団員たちは次々に彼女に魅了され、親密な関係を結ぶが、その関係はつねにヒカリによって壊される。
 このようにあらすじを書くと、周囲の人々を手玉に取る「悪女」の話かと思われるかもしれない。だが、ヒカリは「悪女」という言葉から想起される腹黒さや自己本位からは程遠い人物だ。
 元劇団員たちは、ヒカリがたぐいまれな喜ばせ上手であったことを口々に語る。ある者は「ヒカリって人はとってもよく気がついて、してもらうとありがたいことをさっとやってくれるのよ。こっちがやってほしかったのかどうかわからないようなことまで楽しそうな笑顔でやってくれるから、「ああ、私はこれをしてほしかったんだ、嬉しい」って気持ちになるの」と語り、またある者は「あいつは年季の入ったもてなし人で生粋のエンターテイナーだからなあ」と語る。ある者は「私の性格も趣味嗜好もろくに知らない段階で、どうしてあんなふうに私が喜ぶことを言えたのだろう」と回顧し、またある者は「気が小さいほど人を傷つけるのを恐れていて、身についた習慣のように人を喜ばせ力づける」と評する。

 一言で言えば、ヒカリは「贈与」的な人物なのだ。ヒカリは、相手を喜ばせた見返りとして、たとえば金品や経済的援助、ステータス、愛情といった対価を求めたりはしない。
 ただし、それは必ずしも慈愛に満ちているとか、思いやりが深いからではない。ヒカリは、「悲しそうな人とつき合って、相手が幸せそうな顔を見せるようになると『もういい』って、自分の役目は終わったって気になるんですよ」と語る。もうこれ以上「喜ばせ力づける」必要がなくなったと判断した途端にあっさりと関係を断つのだから、その贈与は義務的でさえある。
 だが、ヒカリから喜びを与えられた者たちは、そこに打算がないだけに、ふられた後もヒカリを憎むことができず、苦しむことになる。湧き出た思いや感情を、「なかったこと」にする術がないのだ。贈与は、面倒臭くて、おそろしい。

 こうしたヒカリの性質と共鳴するように、『ヒカリ文集』には、東日本大震災の被災地におけるボランティアや、老人ホームへのギター演奏の慰問、献血など、無償の贈与行為が重要なモチーフとして散りばめられている。
 さらに、文集の書き手のなかでは最後にヒカリと親密な関係になった優也の手記には、彼がヒカリに「ボランティア的なことをライフワークにすれば? 一人の人を愛せないんだったら大勢の人を同時に愛すればいい」とアドバイスしたというエピソードが綴られている。このアドバイスの影響かどうかは分からないが、ヒカリは劇団を退団後、アジアのどこかでボランティア活動に従事している可能性が仄めかされている。
 このように、元劇団員たちのあいだでは贈与のモードが連鎖し、誰もが他者に何かを与えることに駆り立てられているように見える。

 贈与の連鎖を象徴するのが、彼らの編んだ「ヒカリ文集」だ。
 この文集は、どこかに公開するわけでもなく、ヒカリ自身にさえ読まれる可能性はほとんどない。現実的な目的やメリットはとくにないテキストだが、それは元劇団員たちのヒカリに対する返礼のようにも、思い出に捧げる供物のようにも見える。文集の取りまとめ役をつとめた鷹野裕は、ヒカリ文集のアイデアを別の元劇団員から聞かされたときのことを、こう語る。

 久代が熱心に語るのを聞くうちに、私たち全員の記憶が寄り集まってやわらかく温かく芯に熱をはらんだ光を発するイメージが頭に浮かんだ。

 このイメージは、小説『ヒカリ文集』の読後感とも一致する。愛憎渦巻くスキャンダラスな読み物にもなりかねない内容であるにもかかわらず、そうなっていないのは、この小説が一貫して贈与のモードに縁取られているからだろう。

 そして、このやわらかく温かい「光」のイメージは、私たちが他者との関係や、世界との関わりにおいて望むものの本質を形象化したものとも言えるのではないか。
 具体的にどのような場面で、あるいはどのような関係性において「光」が生まれるのかは、マニュアル化することができない。ヒカリと元劇団員たちのように、いわゆる「心温まるヒューマンドラマ」とは程遠い関係性のなかで、それが生まれることもあるだろう。そもそも、その「光」は、効率よく手に入れようとした瞬間に消えてしまう性質のものかもしれない。
 でも、私たちは「光」の温かさをたしかに知っている。その温かさを思い出すことが、「コスパ」の支配する世界から抜け出す手がかりになるかもしれない。