ある日、子猫の「えびお」のもとに、おじいちゃんから浮き輪が届けられる。えびおの母親は、「このまちには うみも なければ かわも プールも ないのに」と不思議そうだが、浮き輪に同封されていた手紙によれば、どうやら満月に使う「とくべつな うきわ」らしい。待ち遠しかった満月の夜に浮き輪を膨らませてベランダに出ると、えびおはそのまま浮き輪ごと宙に浮いて、上へ上へと飛んでいってしまう。
蜂飼耳(文)と牧野千穂(絵)による『うきわねこ』(ブロンズ新社)は、心温まる絵本であることは間違いないが、一筋縄ではいかない本だ。
浮き輪をもらう冒頭のえびおは、おかかのおむすびを食べている。こっそりと手紙を読むシーンでは、階段のわきに金木犀かミモザらしき一房が花瓶から落ちている。はじめは「どんどん」飛んでいた浮き輪は、朝方になると「ふらふら」飛んで、最後は「はなのように そっと」萎んでしまう。
愛くるしいえびおの暮らす世界は、とくに絵によってつぶさに描かれているが、どこか命の終わりの気配がする。絶えず小さく輪郭が震えているような絵でも、静謐に綴られる分かち書きされた文でもときおり死が仄めかされ、そのすぐそばで躍動する生にひっそり影を落としているようだ。
海までたどり着いたあとにおじいちゃんが釣った魚を食べている場面はとりわけ鮮烈で、物語のはじめでは食器のある食卓についていたえびおが、四つん這いになって大きな魚にかぶりついている。波音を音楽として聴きながら、「あたまから しっぽまで おいしく」真っ赤な肉を食べ尽くしてしまうのだ。文では優雅なひと時のように描かれているものの、ぎらつく野生が見開きいっぱいに広がっている。
ひょっとすると、えびおたちの生活する家屋や使っている食器などが大きすぎないか、暮らしにくくないのか、もしや人間が滅んだりして残されたものを使っているのか、と一見して気になることがあるかもしれないが、まずは、絵本にどっぷり浸かるのがよいだろう。この絵本の物語自体が、海の潮のような大きな流れに身をまかせる話なのだから。
えびおに贈られた浮き輪は、昼間に膨らませても普通の浮き輪でしかないけれど、満月の夜、えびおの意志とは関係なく浮き上がる。まるで海のない町に来た大潮に乗ったかのごとく、浮き輪はゆっくりゆっくり夜の沖まで飛んでいく。えびおが操舵している様子はない。海で釣りを始め、釣った魚を炙る指示をしたのは、空の上で会ったおじいちゃんで、実のところ、えびおは差し出されたものを真摯に受け取るだけだ。朝が近づいて家路につくときも、「かえりみちは うきわが ちゃんと しっていました」から、えびおがあれこれしたわけではないだろう。誤解のないように言っておくが、えびおはあらゆることに唯々諾々としているのではない。浮き輪を貸してほしいという友だちの頼みを断って、おじいちゃんの言うとおりに満月の夜まで大事にしまっていた。えびおは、自分の意志で身をゆだね、そして起こる未知を全身で感受する。
自分で決めて何かに身をゆだねることは、なかなか丹力が要る。何が起こるかわからないなかで、じっと待ち、起こったことを必死に受け止めたところで、「なんとなく」以上のことはわからないかもしれない。あらゆることに意味を見出して自分のなかで解決して納得と満足を得るよりも、きっとずっとむつかしい。『うきわねこ』を開き、そこに描かれた猫の目、じっと相手を覗っているような、何を考えているのかわからない(自分の視線が反射しているだけかもしれない)真ん丸の目を見つめながら思う。流されるときは自らの意思で身を投じたい。なんとか沈まずに浮かび続けたところで、何がどうなるかはわからないけれども。