龍女は海女である
さて、能「海土」の最後に引かれている龍女成仏譚であるが、これは『法華経』に語られている女人成仏の物語である。女の身は穢れているから仏法の器とはならないという女身垢穢(にょしんくえ)、女人の身には五つの障りがあって、梵天も、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏身にはなれないという女人五障(にょにんごしょう)があるというのに、文殊の教えによって、海中に棲む八歳の龍女が成仏したと語られる。この龍女が女の「障害」をどのように乗り越えたかというと、極楽往生する直前に男子に変じて、女の身体を捨てることによるのである。男子に変じることを変成男子(へんじょうなんし)というのだが、要するに女は女の身体のままでは成仏できないし、したがって仏しかいない極楽にいくことはできないというのが仏教の基本思想である。この変成男子という身体の変身は、比喩的な意味ではなくて、サンスクリット語の原文をみると「女性の性器が消えて男子の性器が生じ」たと説明されていて、つまりは性器的身体(セックス)が男性である必要があったわけである。
龍女成仏譚とはかくも男性中心的に妄想された女人往生の物語なのだが、さしあたってここで問題としたいのは、龍女は成仏してしまうほどの力を与えられている点である。この龍女と子をなすことが、藤原氏の繁栄を裏付けているわけである。その龍女のイメージが、物語において海女としてあらわされるのは、海深く潜って行き、貝などを取り、そこから真珠を手に入れ、それは龍の宝である宝珠を手に入れることのようにもみえるからなのであろう。龍はしばしば玉を握る像で描かれていて、龍の宝が玉であるというイメージは良く知られている。その玉を海から引き揚げてくるのが海女だから、海女が龍の娘へと妄想的に置換されるのである。
『日本書紀』の允恭天皇紀には、真珠(しらたま)をとる海人の逸話が記されている。天皇が狩りをしに淡路島に行ったとき、まったく獲物がかからなかったため、占いしてみると、島の神に明石の海底にある真珠を捧げよとのお告げがあった。そこで、海人(あま)の男狭磯(をさし)が海に潜り大アワビをかかえて上ってきて息絶えた。アワビのなかには、桃の実ほどの大きな真珠があったので、これを島の神に祀ったという。
先の『源氏物語』「明石」巻には、これらの説話が響いてくることばが仕込まれていることはすでに指摘されている。光源氏は海の向こうに見えている淡路島を眺めながら、「あはと見る淡路の島のあはれさへ残るくまなく澄める夜の月」という歌を詠んでいるし、明石入道は、筝の琴を弾きながら、光源氏に「伊勢の海」という催馬楽を披露している。この歌詞には「伊勢の海の 清き渚に 潮間(しほかひ)に なのりそや摘まむ 貝や拾はむや 玉や拾はむや」とあって、貝を拾い、玉を拾う海女の姿が謳われている。住吉神の導いた関係は、海女でありかつ龍女たる明石の君と子をなすことであったということになるわけだ。
中世版八幡神話
淡路島の玉取り説話で語られた狩りと海の関係は、もともと『古事記』『日本書紀』の神代に海幸山幸神話として知られる物語に関わっているだろうし、さらに海幸山幸神話は、結末を龍女との結婚で結んでいるという点でも、藤原氏興隆の始祖譚である海女の玉取り説話に密接にかかわっている。
『日本書紀』によると、兄海幸は、釣りする漁師、弟山幸は、狩りをする猟師であった。ある日、二人はお互いの道具を交換してみるのだがうまくいかない。おまけに弟は兄の釣り鉤を海に落としてなくしてしまった。怒った兄は、海底からその釣り鉤をとってくるよう命じる。こまった弟山幸は、潮の流れを司る神、塩土老翁(しほつちのをぢ)に相談し、籠のなかへ山幸を入れて海にしずめてもらい、山幸は龍宮にたどりつく。ここに出てくる、潮の流れを司る神は、のちに中世になって海幸山幸説話を取り込んでつくられた神功皇后説話に出てくる住吉神像に重なる。
龍宮城で山幸は、海神の娘豊玉姫を娶って楽しく三年の月日を過ごしたのち、地上へ戻る。このとき手渡されるのが、潮満珠(しほみつたま)と潮涸珠(しほふるたま)という二つの玉である。潮満珠をつかえば海水が満ちて、潮涸珠をつかうと潮がひいたように海水が引く。これは兄をこらしめるために使われた。この海神にさずけられた玉によって、兄が弟に恭順する服属神話が成立する。支配者として立つためには、海神の助けを必要とするのである。さて、豊玉姫は産み月になって、妹玉依姫を伴って地上にやってくる。山幸は約束通り鵜の羽を屋根にふいた産屋をつくって迎える。
出産場面は、神話によくある「見るなの禁」のお話で、出産するところをどうか覗かないでくれと言われたのに、山幸は覗き見してしまうのである。出産中の豊玉姫は龍の姿に化していた。龍となった姿を見られた豊玉姫は、以後海の途を閉じて、地上との行き来ができないようにして龍宮へ帰って行ってしまう。豊玉姫は龍女だったのだから、山幸は龍女と子をなしたことになる。龍女の名が豊かな玉の姫であるのも龍と玉の関係をよく説明しているだろう。
鎌倉時代、1268年からのたび重なる蒙古国からの使節の訪れと元寇と呼ばれることになる蒙古軍襲来、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)の頃、朝廷は迫りくる蒙古軍の西の砦として九州で信仰されていた八幡神を頼みとし、あらたに中世版八幡神話を整えていく。八幡神は、神功皇后あるいは神功皇后の息子、応神天皇を主神とおき、男神一体、女神二体の三神構成で成り、とくに神功皇后の説話が八幡縁起の中核を担っている。なぜなら神功皇后は、新羅へと船出して対岸の新羅国に津波を起こし、戦わずして新羅国を帰服させ数々の宝を手に入れた逸話が『古事記』『日本書紀』に語られているからだ。敵国を帰服させる神功皇后であれば、必ずや蒙古軍を退けてくれるはずだと妄想されたのである。
神功皇后が新羅へと船出したとき、すでに応神天皇を懐妊していたのだが男装して海を渡り、のちに筑紫で出産している。その産み処を宇美(うみ)と名づけたという地名由来説話が付随する。単純に言って、海の神が女であるのは、「うみ」の語が「産み」とつながっているせいでもあるだろう。
さらに神功皇后を龍女のイメージへと接近させて再構成したのが、中世版八幡神話である。中世版八幡神話には、京都の石清水八幡宮で整えられた『八幡愚童訓』や九州の宇佐八幡宮で整えられた『八幡宇佐宮御託宣集』があるが、それとは別に、瀬戸内海沿岸でつくられた絵巻が多く伝存している。中世版八幡神話は、『古事記』『日本書紀』の神功皇后説話に、海幸山幸説話を加えて構成しなおされているのだが、神功皇后が新羅征討に向かうのに必須の説話として、山幸が龍宮でもらったのと同じ二つの珠を龍神からもらい受ける挿話が加えられている。新羅国を目の前にして神功皇后は、まず乾珠(かんじゅ)を海に投げ入れる。たちまちに潮がひいて、敵陣が船に向かって攻めてくる。そこで満珠(まんじゅ)を投げて、満ち潮にし、敵陣をおぼれさせて降参させた。つまり中世版八幡神話では龍神の力を味方につけることによって新羅の服属がはじめて可能となったと語っているのである。
絵巻では、この物語をベースとして、瀬戸内海沿岸では潮待ちの地として重要であった牛窓の地名由来説話、牛まろばしの伝説が付け加えられているのが特徴だ。神功皇后が新羅に向けて船出すると、沖から大きな牛がやってきてその船を襲おうとする。乗り合わせていた翁が牛の角をつかんでひっくりかえして退治する。その牛はいまも島となって凝り固まっているのだが、そこは牛まろばしが転じて牛窓と呼ばれているというのである。実際に牛窓の海には牛のかたちに見えなくもない大きな島が横たわっている。
ところでこの牛をまろばした翁はただの老人ではなくて住吉神であった。絵巻版では、新羅出征に際して、住吉神と神功皇后と、男女二人の航海の神が登場していることになる。中世版八幡神話では、神功皇后は新羅の地に乗り込りこんでいる姿も描かれているのだが、このとき住吉神は描かれない。住吉神は、牛をたおして船出を助け、龍王から二つの珠をもらうのに協力し、旅のはじめに登場するのみである。