Re-think 現代写真論――「来るべき写真」への旅

第04回 写真のジレンマ
「プロヴォーク」にさようならをするとき

世界的に再評価がすすむ『PROVOKE』

 ホンマタカシが中平卓馬についての映画『きわめてよいふうけい』を撮った機会に行われた森山大道との対談(『美術手帖』2004年7月号)にこんなやりとりがあった。

森山「今の若い写真家や写真志望の人たちが、中平とか『プロヴォーク』とか語るのをみていると、やめなさいよ、と思うよ。興味をもつのはいいけれど、反措定として違うところから出てきなさいよ、と」

ホンマ「ところが逆に盛り上がってきていますね、ヨーロッパもそうですし、海外ではいま、『プロヴォーク』の人気がすごいんです」

森山「海外はいいんですよ、あいつらが、やっとおいついてきたんだから。いや、べつに偉そうに言ってるわけではないですよ。彼らには60年代、70年代の日本に対する総合的な興味があって、僕の知ってる範囲ですけど、当時の日本のアンダーグラウンドを含めたいろいろなカルチャーが、アメリカでも見直されているみたい」

 確かに50年を経て、『PROVOKE』は過去のマイナーな事例どころか、60年代末の日本文化を象徴する文化的事件として扱われ、また国際的にも注目、再評価、研究が行われようとしている。

 それは一体なぜなのか?

『provoke』第1号、1968年

 

 

メンバーたちの自己認識──中平卓馬、多木浩二、森山大道

『PROVOKE』は中平卓馬と多木浩二が中心となって1968年に発刊され、高梨豊、岡田隆彦をメンバーとした。森山大道は第2号からの参加であり、創刊のマニフェストには関与していなかったが、中平と森山を『PROVOKE』の牽引者と言ってよいだろう。

 小型でモノクロのマガジン3冊と、アンソロジー形式の単行本『まずたしからしさの世界をすてろ』を発刊して解散となった写真家と批評家によるグループであった。

 また、サブタイトルを「思想のための挑発的資料」としたように、単なる写真同人誌ではなく、当時のラディカルな政治状況を反映した、思想や言葉とイメージの根源にかかわる問題提起の場として構想された。

 興味深いことに、盛り上がる世間の評価に対して、多木浩二や森山大道、高梨豊などのメンバーの誰もが、解散後に『PROVOKE』についての過大な評価や、「政治の季節」との関連や、「運動」めいたことの答えをインタビューで求められることに全く積極的でなかった。

 中平卓馬は彼の写真集『来たるべき言葉のために』(1970年)に収録された長文テキストや、著作『なぜ、植物図鑑か―中平卓馬映像論集』(1973年)など、解散後早い時期から、繰り返し『PROVOKE』について激しく自己批判的に書いている。典型的な箇所を、少し長いが引用しておこう。

『プロヴォーク』は恐らく一つの役目を終わったのだろう。それは木が木であるという自明であるが不毛の理を証明するものとしての映像を逆転させ、反対に、それらしくある意味に疑義をさしはさむ映像を、遅ればせながらも、提出した。しかしそれも今ではいささか小さなファッションになり下がってしまった。ここでファッションというのは単に風俗を指すのではなく、それに安心する他ならぬぼくら一人一人の肉体と思考を指す。荒れに荒れた映像、あるいはことさらにピントをぼかした写真。それらはすでにデコレーションとなってしまったのだ。

今、ぼくらは再び出発点にもどらなければならない。それがはたしてどのような形になるか、明確にしゃべることはできない。……

(『来たるべき言葉のために』「映像・言葉」より)

 また多木浩二は、2008年に写真美術館で開催された「森山大道展  I.レトロスペクティブ 1965-2005/ II.ハワイ」において出版されたアンソロジー論集『森山大道論』に寄稿しているが、彼もまた『PROVOKE』について多くを語りたがらない。

森山さんとは、かつて関わりがあったとはいえ、もう何十年も昔のことだ。プロヴォークの同人たちは決してプロヴォークを自ら口にすることはないが、勝手にまわりが話題にしているだけで、迷惑な話である。森山さんはプロヴォーク抜きでも、優れた写真家森山大道になっていったはずである     (前掲書)

 多木浩二はこのときに寄稿した小論「都市の神話」で、森山の全作品を眺めながら、自分が一貫して研究してきた「都市論」の視点から読み解こうと試みる。森山の写真が、いつか見たような気がするということ。自己組織的な都市、新宿駅と写真。微視的な変化。過去と現在が重層する時間について……。その写真分析の手触りには、同時代の伴走者としての矜持が感じられる。多木浩二もまた、『PROVOKE』抜きでも、優れた批評家であったことが明示された論考だと思う。

 彼らは自分たちのことを「仲間」などと呼んだのだろうか。たまたま行きずりに知り合った、「共犯グループ」のように思っていたのだろうか?

 そんな声が頭をよぎる。

 森山大道は2003年に横浜美術館で開催された中平卓馬の個展「原点復帰─横浜」(タイトルは中平自身によってつけられている)のカタログへの寄稿「なぜいま、中平卓馬なのか?」において、『PROVOKE』の頃の中平との対話を踏まえ、次のように書いている。

結局、彼の中核をなす思想と感性は今も何一つ変わることがなく、三十余年も前に、“悲しそうな顔をした猫の図鑑はない……”と謎をかけられた僕も、その言葉のコードに沿って、中平卓馬とはまた別の地図を歩いている。彼と僕とは、ずうっと以前から現在(いま)に至るまで、写真という一点に於いて、つねに共犯者であり敵対者であったと思う。

(前掲書)

「共犯者であり敵対者」とはっきりと言えるところが、森山と中平2人の、写真の壮絶であり、幸福ではないだろうか。

 

森山と中平の相克──写真のジレンマ

 上記の森山の記述は2003年のものだ。しかしこれは回顧から出たコトバではなく、すでに1969年の『まずたしからしさの世界をすてろ』に収録された中平卓馬と森山大道の対談(対談タイトルは「写真という言葉をなくせ」である。なんと挑発的だろうか!)で、2人の「共犯」と「敵対」はすでに明快に措定されていた。

 写真の運動性は2人を極に動いており、もはやそこに第三者が口を挟む余地などない。だからこそ『PROVOKE』は終焉し、メンバーの誰もが、さらに語る必要など一切ないと断言するのである。 

 この『まずたしからしさの世界をすてろ』の対談で森山は、その後も反復し語り続ける「写真は芸術ではない」、「複写」、事物やイメージの虚像・実像の「等価」について語り、「ぼくにとって一番リアルなもの、それをぱっとつかんで外に出す。それが終われば、もう誰が撮ったかなんて問題にならない。そんな種類の行為だと思う」と言う。

「とにかくぼくの写真はこれからどんどん変わっていく。こんなことは言っても仕方ないけど、中平さんとは大分違ってくるんじゃないかな。5年10年とたてば」

 この森山の発言に対して中平はラストで自閉気味に語る。これもその後、中平が執拗に反復して語り続けることだ。

物をぼくは視る。そして視つづけてゆくうちにふと逆に物によって自分が視られているんではないかということを感じる。それは森山さんが言った自分が他人の眼で見られるかもしれぬということとは意味が違う。あなたの場合は自分が他人の眼で見られるということだ。そうではなくて、あくまでもぼくが世界をみる。ファインダーを通してね。見続けるうちに逆の方向から見ているつもりの物によって僕自身が返されているのではないかということ。結局そこでは自分だけが問題になってしまう。そういう意味で自閉的だとは思う。……

(前掲書)

 2つの立場の措定。

 自分が撮った複写、擦過の産物としての写真もまた世界の事物と等価であり、世界に飛び散ってゆくという森山に対して、あくまで凝視し、そのはてに事物に見返され、世界から自分がブラックホールのように陥没、ないし自閉していく道に固執し続ける中平。

 その類例のない2つの「共犯と敵対」が『PROVOKE』の成果であった。

シナリオは50年前に、はっきりとできあがっているではないか。

 まるでマルセル・デュシャンが取ったあらゆる解釈も作品の一部であるというコンテンポラリーアートのパラドクスのように、2人の写真工作員が仕掛けた時限爆弾は今も、あちこちで爆発し続けている。

 彼らの成果は、写真の根本にある「ジレンマ」(アポリアといってもよいが)の発見であり、写真をやればやるほど、誰もがそのワナにはまるのだよ、ということを身を呈して、突き止めたことにある。

 それ以上でもなく、それ以下でもない。

 明快な写真のジレンマの発見であり、極端な言い方をすれば、写真にまつわる「呪詛」の誕生である。 

「アレ」「ブレ」「ボケ」のスタイルや、その後の中平の記憶喪失や、森山の薬物中毒などのエピソードに惑わされてはいけない。2人は共犯者なのだ。手の内も明かしている。確信犯なのだ。『PROVOKE』という、写真の特別な訓練をされた特殊工作員である。彼らの写真は50年に渡りブレたことはない。

 彼ら2人が発見・誕生させた「写真のジレンマ」は、今も消えていない。世界の写真史においても、このような事態は他にないだろう。

 2人は、彼らが生み出した写真の評価や考え方に対する「理解と誤解」や過大な「賛美」が高まる中で、「あなたたち、まんまと写真のワナにはまりましたね」と舌を出して笑っているのかもしれない。

 

『PROVOKE』は欧米でどのように評価されているのか?

 視点を変えよう。

 2016年から17年にかけて「Provoke: Between PROTEST and PERFORMANCE ── Photography in Japan 1960/1975」と題された、大規模なグループショーが、世界4都市を巡回した。奇妙なことに、日本巡回はなかった。

 いずれにせよ『PROVOKE』は世界の俎上に載ることになった。森山大道がホンマタカシとの対話において森山が発した「あいつらが、やっとおいついてきたんだから」というのは、つい出た本音だが正しい。

 60年代から70年代にかけての政治とアート、日本アヴァンギャルドアートへの広範な関心の中で、『PROVOKE』の写真史、文化史における確信性(革新性と言うより)がはっきりと位置づけられようとしているのだ。

 さて、ここに至るまでの、森山大道への国際的な評価の高まりを軸として、開催された展覧会を整理しておこう。

・2003年 森山大道個展「DAIDO MORIYAMA」カルティエ現代美術財団

・2012年 「William Klein + Daido Moriyama」テートモダン

・2012年「Tokyo 1955-1970: A New Avant-Garde」ニューヨーク近代美術館

・2016年 森山大道個展「Daido Tokyo」カルティエ現代美術財

・2016年から17年「Provoke: Between PROTEST and PERFORMANCE - Photography in Japan 1960/1975」アルベルティーナ、ヴィンタートゥール写真美術館、ル・バル、シカゴ美術館

 このような展覧会の連鎖反応により、森山大道はコンテンポラリーアートシーンにおいても、押しも押されもせぬマスターの位置を獲得し、またアートマーケットでもコレクターが注目する「アイテム」になった。

 2016年から4都市を巡回した「Provoke」は展覧会タイトルはズバリ「プロヴォーク」であったが、しかし内容的には『PROVOKE』を深掘りしたものではなく、カオスであった。

 僕はスイスのヴィンタートゥール写真美術館と、パリのル・バルでの2カ所の展示を見た。

 美術館によって展示の姿勢が異なってはいたが、中平・多木・森山の活動としての『PROVOKE』展ではなく、まさに60年代から70年代の「政治と文化」の激動総体を写真を通して再提示する、そのキーワードとしてProvoke(挑発する/誘発する)というコトバが選ばれていたように見えた。

 だから最初、「Provoke」とタイトルされているのに、プロヴォーク以外のもの(VIVOやハイレッド・センター、三里塚闘争の写真など)も、やたら展示してあるので、観ていて居心地が悪かった。600ページを超える大部のカタログは、1960年から75年の写真をカバーしており(細江英公、東松照明、荒木経惟も含まれている)、展覧会キュレーションに沿って「PROTEST」「PROVOKE」「PERFORMANCE」の三部構成になっているものの、川田喜久治の『地図』が巻頭に入っていて面食らった。

 後日、ヴィンタートゥール写真美術館の辣腕キュレーター、トマス・シーリグが来日して東京で会ったときに、僕は展覧会の感想をぶつけてみた。

 彼は、4つのインスティチューションが役割を分担して共同で進めたこと。ダイアン・デュフォー(ル・バル)とマシュー・ウィコスキー(シカゴ美術館)がキュレーションを担当したこと。ヴィンタートゥール写真美術館は、ル・バルとともにパブリケーションのプロデュースを担当したのだと説明してくれた。

「展示には日本のアドバイザーはいたけれども、キュレーターは海外の人たちしかいなかった、それがいいのか悪いのかは、わからないけどね。スタイデルから出版されたカタログもダイアンとマシューの編集によるものだ」と切り出した。

 ヴィンターツールでの展示は、入るとすぐに雑誌『PROVOKE』のページがバラバラにされて壁面に並べられていた。テキスト内容の翻訳などコンテクストの提示はなかった。

 「僕らは、当時の発行された出版物をバラして展示し、さらに、ビデオでそれらのページが右から左へとめくるところを撮影した映像を流した。『PROVOKE』だけでなく、その時代の印刷物の全てを重視したんだ。ファクシミリや、雑誌の表紙、中面のコピーも壁にはった。僕はプロヴォークの全体像を理解しているわけではない。例えばどのアーティスト、どの作品が重要だったのかということについては正確には理解していない。しかし、パブリーケーションがコアにあった。だからキュレーターとしての僕にとっての最大の問題は、どのようにそれらのパブリーケーションを鑑賞者に見せるかということだった」

 一方、後日見たパリのル・バルでの展示はプリント中心であり、ヴィンターツール写真美術館は印刷物中心だった。キュレーションの姿勢がまるで違う。僕は最初は面食らったが、シーリグの「解釈」を逆に面白いと思った。ヴィンターツール写真美術館は、旧来の写真作品をコレクションしたり、ポストウォーの写真を歴史化する以上に、現代写真の可能性を切り開く野心的なキュレーションを行い続けている。「たった今・ここ」で誕生する写真を扱っている。彼らの活動そのものが「写真のre-think」だと言っても過言ではないのだ。

 

『PROVOKE』の系譜を継ぐ者は?

 シーリグは会話を交わしていくうちに、「今の日本において『PROVOKE』の影響はどのように引き継がれているんだい?」と質問してきた。

 彼が念頭にしていることは、すぐわかった。欧米での森山大道の高い評価と、そしてその考えを現代に引き継ぐ1人として、写真家・横田大輔のこと、そしてグループであるspewを注目しているからである。

 横田大輔については「2010年代の写真」という別項目で後述するので、ここではあまり詳しく触れないが、彼が手法は全く違うにもかかわらず、モノクロームで、かつての『PROVOKE』の中平や森山らの「アレ」「ブレ」「ボケ」を思わせる仕上がり感から、デビュー当初から単純に類似を述べる写真評論家があとを絶たなかった。

 オランダのアムステルダムにあるFoam写真美術館での「Foam Talent」や、世界の若手写真家の登竜門的な賞である「フォーム・ポール・ハフ・アワード」の受賞、そしてFoam美術館での大規模な個展という連鎖によって、横田大輔が日本においてはまだ大きな賞を受賞していないにもかかわらず、国際的な現代写真の舞台においては、瞬く間に高い評価を得ているのだ。

 世界巡回展「Provoke: Between PROTEST and PERFORMANCE ── Photography in Japan 1960/1975」においても、ル・バルでのシンポジウムにも横田は招待されていた。

 そんな横田大輔のことをトマス・シーリグが見逃すわけがない。ちなみにシーリグは、どの美術館よりも先に、横田大輔が自ら出力して作った写真集『matter』を購入し、美術館コレクションに加えている。

 

今のプロヴォークはいったい誰なのか? 

 かつて写真評論家の西井一夫は1996年に、『なぜ未だ「プロヴォーク」か』という力作写真論を著した。その論理的格闘は尊敬に値するが、同時にこのようなイデオロギッシュな形でのアプローチがすでに失効しているのではないかと思われるのだ。

 シーリグが『PROVOKE』のヴィンターツール写真美術館での展示に当たって、印刷物に注目したのはたまたまの思いつきではないと僕は思う(そして横田大輔の「印刷物」としての写真にも)。

 そこには中平卓馬が、コトバや思想によって政治的な闘争や視覚の制度化という「状況」を突破できず(ちなみに『PROVOKE』のサブタイトルを思い出してみよう。「思想のための挑発的資料」である)、自己否定的にモノに帰ったように、もはやモダンな思考法の限界に早くも達していたことを意味する。

 荒っぽい言い方をするなら、僕らはモダンな思考で『PROVOKE』を捉えるのをやめ、もっと異なるバイパスで2人組が提出したジレンマに触れなければならないのだと思う。

 

『PROVOKE』を超克する現代写真

 ここにおいて、ホンマタカシが中平卓馬そのものを被写体にして、映画と写真集で『きわめてよいふうけい』を制作したポストモダン的なラディカリズムの重要性が浮かび上がるだろう(ちなみにシーリグが今までヴィンターツール写真美術館で企画した日本人写真家は、森山大道とホンマタカシの2人きりである)。

 ホンマにおける「90年代写真のポストモダンなラディカリズム」についての再考は別項に譲るが、彼が「ニュードキュメンタリー」という、明らかに中平卓馬を意識した視点にもかかわらず、「様々なメディアの選択により、世界の見方が変わる」という方法で、中平が突破できなかったジレンマを軽々と、ある意味遊戯的に突破していることは、きわめて重要だと思うのだ。

 まして、ホンマよりもっと若い横田大輔らの世代において、中平・森山の「写真のジレンマ」は消滅することなき呪詛ではあっても、デジタルネイティブな新世代にとっては、「写真という入力装置を通した見方の様々を提出するのが、アーティストとしての写真家である」、さらに言えば「写真というメディアを問うことが、写真家の作業なのだ」ということとして拡張しており、これもまた中平卓馬や森山大道の「問い」の超克と言ってよいと思われる。

 さて最後に、ともに森山大道に触発されて「写真家」となった小山泰介と横田大輔の対談を引用してこの項を終えたい。彼らはともに、プリントだけでなく、インクジェット出力、プロジェクション、インスタレーション、動画、さらには立体化など多様な展開を行うし、『PROVOKE』の桎梏であった主体の放棄など、当たり前にスルーして行く。

小山 歴史と同時に、ラディカルでコンテンポラリーな表現が力を持っていないと、結局何も更新できないよね。

横田 小山さんも僕も、森山さんから影響を受けているけど、生きる時代が違うから、同じことが成立するはずがない。例えば『PROVOKE』の現代版があったとしても、モノクロで荒れているものがまとめられたら、ブランディングのようになってしまう。様相が変わっている必要がありますよね。

小山 批評性を持ってつくっても、現れ方はそれぞれ違うはずなんだよね。僕たちはその辺まで伝わるような作品を見せないといけないし、受け手に対して「そこを見てね」という気持ちもある(笑)。ポストインターネットについてはどう思う?

横田 自分がやってきたことを揺るがされる部分がある気がするので、とても刺激になりますね。

(『invisible man / magazine 05』artbeat publishers, 2016年刊)

 だからと言って『PROVOKE』の亡霊は成仏などしやしない。見ていてごらん、また「写真の問い」はリターンするだろう。