僕は実は90年代の終わりに、現代写真論を出版しようとしたことがあった。原稿は雑誌に書いたものだけでなく、書き下ろしも進めていて8割はできていたのだが、予定していた出版社が経営難に陥り、僕も諦めてしまったのだ。タイトルは『写真語のレッスン』だった。
その未刊原稿を出力した束の中から、ここに4本の雑誌用に書いた原稿をエディットしてみた。90年代写真とは何であるのかを、今の時点で勝手に書くよりも、その当時撮ったフィルムを、プリントし直して並べて見るみたいで面白いと思うのだ(各テキストのタイトルは、掲載当時のまま)。
① 東京写真病──トーキョー・フォト・オブセッション
(1995年BEAMSのパンフレットのために執筆したテキスト)
僕たちは、なぜこれほどまでに写真に取り憑かれているのだろう。
僕はこの原稿のタイトルを「東京写真病」とした。このタイトルは以前、僕が80年代末から90年代前半の、東京の広告写真家を取材・フィールドワークして94年に出した『東京広告写真』(リトルモア刊)という本の前書きに使ったタイトルだ。その本は、80年代後半のいわゆるバブル経済時の写真の特質が90年代に入ってどのように変質しつつあるかを、写真家の内側、そして写真の内側に入り込んでドキュメントしたものだった。
「東京写真病」というコトバにつけた「病」には、はっきりとした古典的な「病」というイメージはなく、「正常と異常のあわい」、つまり「ボーダー・ケース(境界例)」というイメージでつけたつもりだった。写真の中の生理と病理のあわいを現在進行形でつかみたいと思ったのだ。
90年以降、東京は驚くべきほど写真に取り憑かれているように思う。もちろん僕自身が、最も重症な「東京写真病」にかかった一人だ。『東京広告写真』以降も、次々に展覧会をプロデュースしたし、写真集を編集してきた。ナン・ゴールディンと荒木経惟のコラボレーション写真集『TOKYO LOVE』や、リトル・モアの写真シリーズを精力的につくってきた(高橋恭司、ホンマタカシ、長島有里枝、田島一成、緒方秀美、北村信彦ら、90年代になって出現した新世代の写真家たち。そして来年には、大森克己らの写真集も準備している)。
世の中は、ヘア・ヌードや写真集ブームだと騒いでいたが、僕自身は、もっと大きな時代の動きを今も感じている。つまり、写真という部分において、時代の無意識が強力に噴出していると思うのだ。「写真という現象」を通し、90年代という時代が最も露出しているのだというのが実感である。
「東京写真論」を何人かの評論家が語っているが、作家論的なアプローチはあるにしても現状において整理された「論」はまだ存在していないと思う。
いや、存在していないというより、次々と写真がとらえている時代の無意識を、言葉がとらえていない状況と言ってよい。逆に言えば、もはや批評が破産しているがゆえに、写真が若者のむき出しの心にとらえられていると言ってよいかもしれない。東京写真病は語るにしてもとても魅力的なテーマではあるが、どのようにして語れば語ったことになるのか、僕自身もよくわからない。
だから、まずは、中毒者の告白という形で話を進めるしかない。
写真に取り憑かれた今の東京について記述してみようか。渋谷や原宿を歩いてみればいい。そこにあなたは高性能のコンパクト・カメラを持った女の子たちを見るだろう。写真コンテストの応募審査会場に行ってみればいい。そこでまた、友達、日常風景、セルフ・ヌード、カラフルでかわいらしいオブジェなどを撮った写真が山のように集まっているのを見るだろう。
「写ルンです」のモノクローム・タイプ、ポラロイドの新型。デジタル・カメラ(ついに電子手帳にデジタル・カメラ内蔵のものも出たし、つい先日新聞であのゲーム・メーカーのセガが、デジタル・カメラを発売すると発表された)……。あげればきりのないほど、コンパクトで、コンビニエンスな「撮影装置」が毎日のように生み出されている。
しかし、人々が写真に取り憑かれているのは、何もカメラがどんどん進化しているからだけではない。写真に撮りたい、撮られたいという欲望が何の制約もなく動き出しているということなのだ。あいかわらず、自分たちがSEXしているシーンを撮影した写真で満載の『投稿写真』。コスプレ写真の熱狂。はては、ストリートで自分たちを写した写真で小さなシールがたくさんつくれるプリクラの爆発的ブームなどあげればきりのないほど、東京写真病は社会化している。
このように「写真にして見たい」、「写真になりたい」という欲望はどこからくるものなのだろうか。そのこともまだ僕は精密に語る自信がない。なぜなら、東京写真は何かなんて言葉で簡単にまとめられるようなものではないことを僕自身が一番実感的に感じているからだ。
言葉にすることによって失われるもの。言葉にすることにより、その写真の意味は固定化し、文化はそれを回収しようとする。しかし、僕が思うには、東京写真は文化になる寸前に未分化のまま凍結されたものであり、それ故、人々が取り憑かれるのだ。東京写真は、「生きた東京」といってよく、それは上手に扱わないと死んでしまうような「弱さ」や「希薄さ」、「微妙さ」をおびている。その危険を承知の上で東京写真について思うままに書いてみよう。
ここまで、何の説明もなく、僕は「東京写真」という言葉を使ってきた。それは、現在の東京という場所を撮った写真であることはもちろんのこと、「東京的なるもの」も指す。例えば、TVが生み出す風景である。90年代に入って、日本人の感情は「成熟」や「本物志向」と言われながらも、実は均質化が進んでいる。例えば、『TOKYO STYLE』という、東京に住む人々の室内を撮った写真集であるが、それはまたたくまに地方居住者の室内風景となり、そこで撮られる写真は、『TOKYO STYLE』に載っている写真と同じようになるのだ。建物はもちろんのこと、そこに住む人々のファッション、食べ物、趣味なども若干のタイムラグがありながらもすぐテレビを通じて全国へ浸透していく。このように「東京写真」および「東京写真病」はクローン化して広がってゆく。
さて、東京写真病についてまず語らなければならないのは僕たちの「リアリティ」のことだろう。僕たちは平和な毎日の中で、異質性の高いものを徹底的に排除した都市で生きてきた。反体制的なイデオロギー、社会の矛盾を「生で」感じさせ世界のシリアスネスを体験させる事件、指導的な価値観、タブーや倫理観、父子や家族の絆など、次々に拘束はとかれ、ボーダーはなくなり、現実とフィクションを分けていた権力はことごとく解除されてしまった。対決するものはなく、すべては安全、衛生。それを加速したのはもちろん戦後の高度経済成長だったが、80年代末にそれは突如失速した。今まで、経済によるユートピア建設を夢見てきたダイナミズムは無風状態となったのだ。その時、普通であれば噴出する社会矛盾、難民化、貧富の差、階級、民族問題などのリアルへ向かう力はすでにすべて骨抜きにされていた。もう異質性のエネルギーは解体しつくされていたのだ。
僕たちはまず「大きな物語」をつくる力を失った。そして、すべてが「嘘くさく」「頼りにならないもの」としてうつるようになった。
退屈なパラダイス。
そこには小さな事件しかない。
何が原因なのかを分析したいのではない。分析できるのかもわからない。確かにその作業もあきらめず続けなくてはならないだろう。でもまず東京写真病の症候例を見てみることだ。
欲望。
距離。
共犯関係。
オブセッション。
幼児退行性。
自己と他者。
生と死。
出口と脱出。
記憶と予言。
天国と地獄。
瞬間と永遠。
軽さと重さ。
SEX(官能)と不能。
差異とくりかえし。
絶望と幸福。
終末と毎日……。
写真は、剥き出しになった欲望がくりひろげる小さな物語を、悲しいほどに写し出す。
あやふやなリアリティの中での自分探し。友人との関係(距離)の確認。限りなく透明で、明るくて、そして悲しい僕たちのいるエンプティな場所。まなざし……。
さて、最後に僕の友人たちを紹介しよう。この東京の写真家たちを。
高橋恭司は、ニューカラー写真の教えから出発し、世界のあちこちをロード・ムービー的に撮影したあげく、今は、東京近郊や、どこにでもあって、どこにもない場所を撮ってまわる。僕たちの東京の毎日の中にあって、そして形になっていないまなざしを写真にしようとしている。それは少しメランコリックだ。(写真集は『ROAD MOVIE』『TAKAHASHI KYOJI』)。
ホンマタカシはもっとクールに、そしてもっと明るく東京を撮る。スイートで、かわいくて、はかないオブジェや、東京ティーンズたち。そして東京サバービアにあるファミレスやラブ・ホテルや遊園地を。ある種、今でなくてはできない定点観測。トランスペアレンスな僕たちの心もそこに写っている。(写真集&パンフは『BABY LAND』『SLEEP』)。
長島有里枝は、突然あらわれた。友人たちやセルフ・ポートレイトを撮影し、ファミリーの写真展、セルフ・ヌードを含む個展、そして二冊の写真集を立て続けに出し、神話を残し、あっという間にシアトルへ旅立ってしまった。『シャッター&ラブ』や、HIROMIX(『girls blue』)に続く女の子が写真を撮ることのスタート地点に彼女はいた。(写真集は『YURIE NAGASHIMA』『エンプティ・ホワイト・ルーム』)。
大森克己は、南米をマノネグラというグループと一緒にまわった写真をロバート・フランクに認められて出現した。彼が撮るのは、場所がどこであれいつも「今、ここ」だが、それはどこか悠久の時間の中での一枚の写真のように見える。病理を特徴化させるのではなく、人間に対する普遍的な評価が彼の写真を健康へと向かわせている(来年初の写真集『エブリボディズ・エブリシング(仮)』が発表される)。
HIROMIXもまた彗星のようにあらわれた20歳の女の子だ。コンパクト・カメラを持ち、友人や自分の周囲や自分を撮る。それは、今の時代の「子供たち」(ベイビー・ジェネレイション)に共通の距離感であり、やさしさであり、時へのいとおしさだ。それを彼女は心から素直に祝福している。小さな弱々しい物語は、次第に強く大きくなってゆくだろう。それは東京の空虚さ、不毛さの中に芽を出した植物のようだ。
今、紹介したのは本当に僕がよく知っているひとでしかない。紹介しやすいので挙げたまでだ。ニューヨークと東京を行ったり来たりしている。若木信吾や、タイプは違うが坂本龍一の写真集『N/Y』を出した田島一成、来年からはニューヨークに拠点を移す平間至のスピード感。モノトーンを中心にエモーショナルな写真を体ごとつかみとる緒方秀美、人間の中にあるグラマラスな官能を撮るBUNKOや、現実の中に飛び込みながら人間の血の温度を見つめ直そうとするかのような菅野純など女性カメラマンたち。本当は一人ずつ丁寧に語りたいところだ。
今は、これ以上整理するより、たとえ病が重くなってもいいから、前に進んでゆきたい。そしてあなたもそうした方がよい。
② ファッションと写真と女たち
(1995年資生堂刊のムック『Ginzabout』掲載テキスト)
ミラン・クンデラはうまい謎を出す名人だ。例えば--人間は、すべてが一回しか起こらない「未経験の星」に住んでいるのか、それとも、歴史は繰り返すという「永劫回帰の星」に住んでいるのか? これは、彼の小説『存在の耐えられない軽さ』に書かれている謎々。世紀末が近づいてきて、人類はちょっと謎をかけられているように僕には見える。
「まだ未知は残されている」という立場と、「もう新しいものはない。全ては組み合わせでしかない」という立場の両極の中で文化は揺れている。写真やファッションもその症候にかかっている分野だ。
その上、この20年の間に「リアル」に関する感覚が決定的に変わってしまったことも大きい。つまり、リアルとフィクションの境界が曖昧となり、人はとにかく自分が「リアル」であると思えれば、ヴァーチャルであってもそれがリアルとなる。そんな中で、写真が浮かびあがる。写真への関心の高さは、写真がリアルとフィクションをワープするための簡易装置になったからだ。
だから、かつてであれば、単純な「ファッション写真」論が成立したのだが、今ではそうはいかない。ファッションと写真と女の三つは、まるで「入れ子」構造になっていて、一つだけを取り出して語ってもなんらリアルに辿りつけない。ファッションも写真も、「様式への回帰(フェイク)」と「リアリティ探し」の中で揺らいでいる。ヴィヴィアン・ウエストウッドからラング、マイゼルからナンまで、状況は80年代的なシニカルさの残滓を引きずりつつまだカオスのまま。
だからと言って、僕は95年の今が、衰弱した世紀末だとは思わない。この20年の消費の冒険をくぐりぬけ、東京の女たちはかつてなかったほど自信に満ち、ファッションよりも女たちの方がスピードにあふれていて小気味いい。文化が「思考のパラドックス」の病に陥り、セラピーを求めているなか、心を感じるままに裸にし、イノセントに生きようと女たちは進んで行く。クンデラの謎やハルマゲドンにひっかかったりしないで、女たちが写真の中に入ったり、出たりする時代がもうやって来る。
③ 今、女性たちが撮るセルフ・ヌードから、写真の新たなエロスの世界が広がる
(1995年『週刊現代』のためのテキスト・ロングヴァージョン)
ベッドで裸で横たわっている写真、シャワーを浴びている写真、部屋で自分の裸体を鏡にうつしている写真……。なぜか最近、写真のコンクールや写真展などで女性のセルフ・ヌードがやたら増えている。弱冠21歳で、セルフ・ヌード写真集をだして一躍若者の人気者になった長島有里枝をはじめ、確実に才能を持つ女流写真家が登場してきた。が、僕の見るところ、彼女たちは氷山の一角にすぎず、実は写真の大転換期の予兆なのかもしれないと思うのだ。先日もこんな話を耳にした。セルフ・ヌードも撮るある若手女流写真家が、某超大物写真家に「あなたのヌード写真を撮らせてほしい」と頼まれた時、彼女は言った。「自分のヌードを他人に撮られるぐらいだったら、自分で撮るよ、なぜって、あなたなんかに撮られたら“もったいない”もん」と。もう男の手なんか借りなくたって、ヌードは自分たちで撮れるというわけだ。
カメラが極限まで小型高性能化を遂げた90年代、今や誰もがある程度のクォリティを手に入れられる。男たちがありきたりのヌードや、声高なワイセツや、逆に立派なヌード芸術論など、相変わらずオヤジっぽく「構えて」アプローチしている間に、女の子たちは自分たちで、自分のありのままの姿や、恋人とSEXしてるところを「自写」しはじめたのだ。
その感覚の広がりのすごいところが、アーティスティックな「女流写真家」のとんがった意識にとどまらず、広くティーンズの女の子たちにまで広がっているということ。もちろん、そこにはゲームっぽい気軽さもあるけれど、重要なのは、セルフ・ヌードによって、彼女たちは自分の人格を確認したり、自分を励ましたり、退屈な生活から脱出したり、そんなふうな道具として、女の子たちが写真機を使いだしたということなのだ。僕のまわりにいる女流写真家の何人かも、セルフ・ヌードを撮っているが、彼女たちはブスとか美人とか関係なく、自分の裸の写真を、「カッコイイ写真でしょ」と言ってにこにこ見せる。今の若い女の子たちは「一回ぐらいヌード写真を撮りたい」「撮ってもらいたい」と当然のように思っているし、なによりもありのままの自分を見たいし、見てもらいたいのだ。今、流行の「下着ルック」や「ヘソ出し」だって同様に、健全な自信のあらわれだ。
だから、僕は、この「セルフ・ヌード・ブーム」を「女流写真家元年」だと思っている。今まで、男が作ったエロスのイメージの真似をしていた、そんな旧い「女流」カメラマンではなく、新しい「女流」のスタートなのだ。ヌードモデルっぽく自分でポーズをしてみて撮る人、自分と男とのSEXの絶頂を撮ろうとする人、レズビアンのガールフレンドを撮る人……。セルフ・ヌードは、まずは自分の欲望に素直になるための基本的な行為になった。このグラビアに登場してくれた写真家たちの中には、まだちょっとためらいが見られる人もいれば、もう全速で未知の性の世界、ワイセツさの追求へと突入していこうとする人などさまざま。でも、どちらにせよ、セルフ・ヌードを起点に、もう男がついていけないほどの濃密世界が花開いて行くことは間違いない。写真は確実に彼女たちの欲望を開いてしまったのだ。
④ 写真のエンプティ・ヘヴン──後藤繁雄の占う写真ブームの95年総括、そして96年はどうなる?
(1995年雑誌『H』掲載テキスト)
いい感じである。先々月だったか、NHKの番組「ソリトン」で「カメラ・ガール」特集の回があって、HIROMIXやアラーキーの秘蔵っ娘、野村佐紀子さんとかが登場していた。その時にも指摘されていたが、うちの事務所近辺の原宿も、やたら高性能コンパクト・カメラを持ってうろうろしている女の子が激増してるのはホントーだ。写真の持つ「写す-写される」という回路は、人の中に潜む官能性を解放していくから、そんなカメラ・ガールたちを眺めていると、時代の無意識というか、欲望指数がけっこう高くなっているのがよーくわかる。こりゃあ、ますます東京は写真だ、病はかなり深い。写真が生まれて、今ほど、音楽と写真が同じくらいのスピードで人に届く時代はなかった。もう、音楽と写真は世界共通語だと言ってもいいぐらいだし、だから、いろんな本を編集していて、僕がホンネで思うのは、今、信じられるのは音楽と写真だけ。まだ先がある。「過去」か「今」の写真を分析することは写真評論家にまかせて、ここでは本をつくっている内側の目で、体感的な写真の95-96年を総括&占ってみたい。
まずトータルな流れ。先日、元ロッキング・オン編集部の田中宗一郎氏と渋谷のタワー・カフェで「オルタナティブ・カルチャー展望」話に花が咲いた。その話をぐっと圧縮するとわかりやすいんで書いてみよう。まず総論的に見て、94-95年は、「オルタナのメイン・ストリーム化」の時期だった。音楽においては、ロック・フェスティバルのロラパルーザ94&ウッドストックであり、写真にいてはホイットニー・ヴィエンナーレにおいてナン・ゴールディンとジャック・ピアソンが主役的存在となり、同時にファッション・フォトやコマーシャルにまで影響を与えたことに象徴される。音楽・写真ともに、ローファイ、ストリート・スタイル、距離が壊れてインティメイトになって、ジェンダーがとりあげられ、といった具合に、小児退行化症候群の産物が次々と登場した。そして後藤・田中の2人の読みとしては、続く95-96年は、「オルタナの再組織化と大衆化」の年ということになる。音楽だと、例えればスマッシング・パンプキンズの『メロンコリーそして終わりのない悲しみ』とグリーン・デイ、シルバーチェアーの両極化と言えばわかりやすいでしょう。それを写真ブームの文脈でおさらいするなら、まずは94年のナン+荒木の『TOKYO LOVE』が一つのターニング・ポイントというか、「オルタナ写真の事件」。この写真集には、HIROMIXも長島有里枝も、笠井爾示も、そしてホンマタカシもみーんなかかわっていて、ナンと荒木が記録した、東京の中にある「写真無意識の」の大集合記念撮影と言っていいものだ。『TOKYO LOVE』は、アート・スペースで発表後、ナンによって、L.A.のアニエス・bやホイットニー美術館、ヨーロッパなどで公開。英語版も出て、一種、オルタナ写真の伝道者役にもなっている。おやじたちはまだよくわかってないと思うけど、この写真集は、80年代バブル日本を支配していた「広告屋の写真」や「モノマネ・ファッション写真」を完全にぶっ壊した死刑宣告であった。もうそのあとは、技術がなくても、アシスタント歴がなくても、無名であっても、金がなくても、いきなり「写真家デビューできる」気分を加速した。やったもん勝ち、なんでもあり。写真は生きてる気分をあらわす道具になった。
それに引き続く95年を総括的に言えば、ピアソンの『オール・オブ・ア・サドン』、ラリー・クラークの『キッズ』(のスチール)、ウォルフガング・ティルマンスの写真集が大収穫。そして、同時代の東京としては、突如あらわれたオルタナ出版社、リトル・モアが次々に放った長島有里枝『エンプティ・ホワイト・ルーム』、ホンマタカシ『BABY LAND』、高橋恭司『ROAD MOVIE』、加えるに田島一成『N/Y』ももちろんあげなくてはならない。また、大森克己がユナイテッド・アローズで山本康一郎と組んでつくったカタログも絶対必見。
なかでも最大の収穫はピアソンの『オール・オブ・ア・サドン』だと僕は声を大にしたい。ナンが自分にまつわる「リアルでシリアスな日記」としての写真であったのに対し、ピアソンはエンプティ・ヘヴンの「今」を見事に写真にしているところが重要だ。94年12月L.A.のホテルのプールサイドで僕は、この写真集のテスト・プリントを見ながら彼と話す機会があった。その時も彼は、20世紀末を生きる自分たちを「映画」のキャラクターとして考えて、「フェイクなドキュメンタリー」を撮っているんだと語っていたが、彼の写真の持つ透明で、明るくて、スイートさがかえって、僕たち一人ひとりの孤独や悲しみを剥き出しにし、増幅させるのである。
ラリー・クラークの『キッズ』はティーンズたちのイノセントさと傷を、まるで手品のように無傷でとらえる。アートっぽいかと思いきや、N.Y.の映画館で観てみたら、スケボーの連中も、Xガール姿の女の子も見事にインティメイトに撮影していて舌をまいた。ティルマンスの写真集は、僕ら各々の時代の「物語」を浮かび上がらせた秀作であり、東京でもロンドンでもN.Y.でもみんな「物語したい」と思っているのがよくわかる。
これらの時代気分と全く同一な気分で撮られ、編集されたのが先のリトル・モアの写真集たちだ。それらは各写真家によって、撮られた期間もモチーフも編集方法も違うし、なんか、軽くつくったカンジがするだろう。でもそれでいいんじゃないだろうか。ここから何か始まればいいわけだから。長島はそれ以降、アメリカへ旅立ち、ホンマはパラダイスへ向かい、恭司は未知の「まなざし」を探し続けている。長島の写真をキャサリン・オピーが、ホンマの写真をソフィア・コッポラをはじめとするL.A.の連中が、恭司の写真をR・E・Mのマイケル・スタイプやジャームッシュが、それぞれ見たとたん「好きだ」と言い、すぐ友だちになってしまう時代がやってきた。こんなことが今までにあったろうか? 1995年に撮られた田島一成の『N/Y』が、1956年のウィリアム・クラインの『NEW YORK』の新版と隣同士で、青山ブックセンターの店頭に平積みされることなんて誰が予想できたろう?
さて、最後に、96年の展望。これはもうさっき言ったように「オルタナの大衆化」は否応なく進む。コーネリアスの『69/96』が渋谷系の全国区作戦とすれば、それに当たる写真集がいよいよ登場。平間至の『MOTOR DRIVE』は、その予告篇だし、はやくも予定されると聞く HIROMIXの写真集も大騒になるだろう。あと手前ミソ的にいうと、僕個人は「写真の編集の多様化」、つまり「いろんな写真集がアリだ」ということをいろんな人にやってもらおうと企画している。リトル・モアで96年予定される「TOKYO PHOTO+GRAPHICS」シリーズ第Ⅱ期は、タイクーン・グラフィックス制作による『G-MEN』(グラフィック・メン)であり、ヒステリック・グラマーの北村信彦篇による『HYSTERIC GRAMOUR PHOTO・REMIX(仮題)』という具合。まあ、大衆化、多様化、そして一方で大森克己、若木信吾らによる時間をかけた写真集への取り組みがその次に待っている。
*編集部注:この文章は当時のものをそのまま掲載しています。