黙殺され続ける偉大な写真家・篠山紀信
日本の写真史の中で、1冊の「写真論」が議論の俎上に載らず、ほぼ無視されてきたのは異様ですらある。
その本は、1976年に『アサヒカメラ』で1年に渡り連載され、翌年に単行本化、1995年に文庫化され、今では台湾語版も出版されている篠山紀信と中平卓馬の共作『決闘写真論』である。
前章でも取り上げた、60年代末から70年代初頭の、最もラディカルな「論客」であった中平卓馬が、「流行写真家」である篠山紀信を、「意表をついて」評価した本として、今なお混乱を引き起こしている問題作である。
篠山紀信ほど有名な「写真家」はいないし、2012年からスタートし、今も全国大型美術館を巡回、間もなく100万人の入場者数を突破しようとしている『篠山紀信展 写真力』は金字塔にもかかわらず、篠山ほど語るのが難しく、今も写真評論家を沈黙させ続けている者はいない。
その意味でも中平卓馬の篠山論は貴重だが、スタンスや論点が今も有効なのか。それとも賞味期限切れなのか。
それを再考したいのだ。
60年代末から70年代への移行は、今からは想像できないほどの大転換点、ターニング・ポイントだった。学生運動やパリ5月革命、ベトナム北爆、カウンターカルチャー、三島由紀夫の自決、アポロの月面着陸、大阪万博……挙げればキリがないほどの「事件」の連続。
広告制作会社ライトパブリシティに入社していた篠山紀信は、1968年には退社しフリーに。沖縄返還前に日本最南端だった徳之島でヌードを撮り(「誕生」)、またアポロの月面着陸に触発されアメリカのデスバレーで黒人、白人、東洋人からなるヌード作品を撮ったり、展覧会や写真集など、誰よりも精力的な活動をしていた。
ところが彼は「写真作家」に自らを閉じ込めることの限界をすぐに見てとる。
「広告」写真の退屈さ、小さな「私」に拘泥する「写真作家」。その2つと決別すること。篠山は果敢にも、大部数を誇る雑誌グラビア写真の台風の中にシフトする。『週刊プレイボーイ』『明星』などのアイドル誌の表紙やグラビア連載で、篠山紀信の写真が時代を埋め尽くし、瞬く間に若者の欲望と記憶を支配した。
虚実を超えた類い稀な被写体、坂東玉三郎との出会い。決定的なターニング・ポイントとも言うべきリオのカーニバルを撮った『オレレ・オララ』。また、3年間に渡りグラフ誌で連載された『家』は、磯崎新のキュレーションでヴェネツィア・ビエンナーレにも出品された。
1975年には、1年間に渡り撮った写真を編集した『晴れた日/A Fine Day』を刊行。そこには南伊豆大地震や台風、巨人軍を引退する長嶋茂雄や山口百恵、オノ・ヨーコなどが、時系列なれど一見脈絡なく並び、しかしこれこそが時代なのだという篠山流ドキュメンタリーの発明でもある。
メディアを使った写真の全方位戦略。
この『決闘写真論』という中平との対決も、『アサヒカメラ』という誌上での公開イベントとして仕組まれたものだった。
「写真のジレンマ」に引き裂かれた中平卓馬──事物からはじきだされること
さて一方の中平卓馬が当時置かれていた状況は、この『決闘写真論』に収められた対談の中で、中平の口からリアルに告白されている。
「1970年頃まではかなり一生懸命に写真を撮っていたんだが、おんなじことを繰り返すことがやんなっちゃって、しばらくの間、なんにもしないでいた……渋谷で玉突きやってたんです」
中平卓馬は、『PROVOKE』において、まず確からしさの世界を疑えと問うた。そこから、中平・森山らの写真の特徴ともいうべきアレ・ブレ・ボケが生まれ、衝撃を与えた。しかし1970年に『PROVOKE』を解散したあと、中平はどん詰まりの日々に落ち込んでいた。ロジカルに写真を追求するがゆえの、「写真のジレンマ」に取り憑かれたのだ。
1972年に刊行された森山大道の写真集『写真よさようなら』に収められた2人の対談でも中平は、
「ほんとうはやりたいわけだけど、何をやっても現実を捕まえられないといった焦燥感を持つ」
と、森山に語り続けていた。そして中平は、ついには1973年に出版した批評文集『なぜ、植物図鑑か』で、自らのアレ・ブレ写真などについて決定的な自己批判、否定を行うにいたる。
しかしスランプとは言え、中平の頭脳は強靭で明晰であり、そんなある日『アサヒカメラ』からウォーカー・エヴァンズ特集をやるから原稿を書かないか、という依頼が来る。
「エヴァンスなら書いてもいいなと思って引き受けたわけです。そこで〈事物〉なんて言葉がふいと口をついてでてきた。そういうことがあって、まだ、“ハスラー生活”が続いていた頃、今度はあなたに『晴れた日』を贈ってもらったんです。その写真集を見て、あなたがものすごく健康的なこと、仕事を支えるエネルギーが大きいことに驚かされたんです。それからすぐ続いて『家』ね。そのときに、ぼくはあなたがとてつもない写真家だってことを発見したんです。もちろん、名前も知ってたけど……。こういう写真のあり方もあるんだということで、むしろ僕の中で写真を再発見することが起こったわけですね。その矢先でしょ。また、編集部から「決闘写真論」をやらんかという話があったのは。つまり、ぼくはショック療法で“ハスラー生活”から立ち直ったのね。ある意味では、アッジェとエヴァンズ、それから篠山紀信の「晴れた日」以後、この三つでもう一度写真家に引き戻された。といえるのかも知れない。そういうぼくの私的事情もあって、この連載が成立したと思うんだ」
この発言の中で「あなた」とはもちろん、篠山紀信。2人はそれまでは、ほとんど面識もなかったという。
連載第1回めは、篠山は自作の『家』からの写真セレクト、それに対して中平は「都市への視線あるいは都市からの視線」というテキスト。
2回めは、篠山は『晴れた日』からのセレクト、中平は「饒舌のゆきつくはての沈黙」と題して論を展開。
1回めはアッジェについて、2回めはエヴァンズを論ずることにまるまる費やし、3回めの終わり辺りでやっと篠山紀信という固有名詞が出てくる。
では篠山の写真に言及するまで、中平は長々と何を書いているのか。
アッジェの書き出しで中平はこう始めている。
「すでにとりかえしはつかない。アッジェの写真を前にしていつも同じ思いにかられる」
「とりかえしはつかない」という思い。これは中平の説明によれば、ノスタルジーや時間の一回性から来る話ではなく、写真に写された街や事物から、それを見ている自分が「はじき出されてしまう」ということを意味する。
事物、それからはじき出されること。
まずこの言葉がこの『決闘写真論』において中平卓馬の心を大きく占めているものであり、これがアッジェ、エヴァンズを(そして篠山紀信を)貫くものなのだ。
意味を剥奪し「事物そのもの」を差し出す写真家・篠山紀信
さらに中平はブルトンらシュルレアリストたちが、アッジェを発見した点についてこう書く。
「私はアッジェの写真に、はいってゆけない自分を感じるとかいたが、それはアッジェが、私的なイメージを捨てて、職人として写真を撮り続けたという事実、そのことによって逆にひきずり出されたあらゆる〈人間的意味〉を超えた世界にわれわれが戸惑いを感じ、そこに事物の敵意ある裸の視線を感じる事と密接な関連があるように思える。アッジェがシュルレアリスムに結果として与えた影響、あるいは逆にシュルレアリスムの芸術家たちがアッジェの写真に注目したのはこの異化作用、異化効果にである」
日常的なモノや街が、私的な思いや記憶、物語や歴史を剥奪されて、異様な事物そのものとして見えてくること。明らかに、中平卓馬は、アレ・ブレ的な世界にから離脱し、「私」をゼロにし、事物そのものとしての写真へと移行しようとしている。
彼の「事物」という言葉の使用の背景には、シュルレアリスムだけでなく、フーコーやバルト、そしてロブ=グリエらからのインスパイアがあり、それらの固有名詞や引用が『決闘写真論』の中に散在していることも見てとれる。
「ある時ふとしたはずみで凝視する時、そこにこれまでみたこともない事物の新しい姿を発見する。事物は日常の擬態をみずから脱ぎ始め、事物は事物であるということ、われわれが手あかにまみれた意味や価値を超えて出て、事物は事物以外のなにものでもないことを語り始める。それは事物の人間に対する反乱の始まりである」
この視点は後の、中平卓馬の「記憶喪失から復帰して以降の写真」を思い浮かべるとき、妙に予言的な説得力を持っている。
ともあれ、中平は自らの次なる写真の可能性の糸口を見つける過程として、アクシデンタルとはいえ、篠山の写真を、思考のサンプルとして選んだのだ。
篠山の写真についての鋭い指摘は、連載第3回めでいきなりやってくる。
「すべてをあまりにも鮮明にみつめると、それは逆に、不確かなものに転じてゆく。事物のもつ線、輪郭、そのマッスの明確さ。篠山紀信の写真の中では、特定のあれかこれかの事物が抽出されるのではなく、すべてがその鮮明な輪郭をもって、事物とその関係がすべて等価のまま突き出されてくる。それはたしかにリアルである。だが、すべてがあまりにリアルであるために、それは逆に虚構に見え始める。われわれは事物を一人一人の日常的な価値基準という〈遠近法〉に基づいて眺め、世界を整理することによって、日々の生活を送っている。それに対して、すべてを等価値に、同じように鮮明にみつめること、それはわれわれの日常的な〈遠近法〉の崩壊をもたらす結果になる」
実に巧みに中平は、篠山の写真について述べる。全ての細部が明確になることにより、全てが等価値となり、逆に虚構に見え始める。篠山の写真はそのようにして、われわれの遠近法を錯乱させるのだと中平は指摘する。
その等価性を帯びた事物により、撮影者である篠山紀信すらも、自身の写真からはじき出されていくのだと。
また中平卓馬は、他の章でも篠山の写真が「私」を超えた「受容的、受動的なもの」だと明確に書く。『PROVOKE』の体験とは、「私」という主体や、あらかじめ予定調和的な意味を帯びた物語性との闘争過程だった。ポロックのアクションペインティング同様、解体を通して創造を手に入れるやり方といってもよい。主体を捨てる「苦行の果て」にアッジェ、エヴァンズ、篠山紀信らの写真にたどり着いた中平卓馬。しかし一方篠山は、言うならば、アンディ・ウォーホル的にメディアの特性に便乗して、「私」という主体を、もっとインスタントに消す変換術を身につけていた。
つけ加えるならば、確かに中平が、事物が意味を剥奪され、事物そのものになってしまったときに発露する「不安」について論じているのは、篠山の写真の本質に触れるもので、真に炯眼というべき指摘だろう。
篠山ののちの作品、食べ物をクローズアップした「食」のシリーズなど、存在を揺らがせる不安こそが、篠山の写真を貫く写真生成のエネルギーでもあるのだから。
篠山の写真は等価性を持っている。中平の分析は実に的確だ。しかし、『晴れた日』で、あっけらかんと成立させた事物の等価的なエディットは、篠山紀信の主体的なエディットの努力の成果ではなく、時代の映し鏡として並走するという「メディアとしての写真」という戦略がもたらしたものだ。篠山が達成した、「私」という主体を消すやり方は、中平が取った、事物になりきるという戦略ではなく、時代の欲望、「消費者」「読者」の目になり変わるという立場の選択だった。
篠山紀信、自らの写真を語る
さらに丁寧に『決闘写真論』を見てみたい。
この本は「決闘」などという、人を煽るタイトルがつけられていることから、両者のどちらが「勝ち」でどちらが「負け」たかを云々する人が未だに絶えない。しかし、今になってはっきり言えるのは、中平卓馬に写真を再生させたという点において、そして、篠山の写真の新しさやすごさを、予見も含め初めて言語化してみせたという点で、実に重要な本だと思われる。
とりわけ「閑話休題」とも言える連載9回めは、対決を超えた2人の「奇妙な交歓」すらある。
この「妻」とタイトルがつけられた回において、篠山の写真は最初の妻ジューン・アダムスの写真で構成。しかしプライベートな写真は1枚もなく、スタジオか雑誌用に撮られた写真で構成。篠山によるコメントにはそっけなくこう書かれている。まるで「私」を極度に客観視したように。
「ジューン・アダムスと一九七一年十月六日に結婚。七十六年十二月二十七日離婚。撮影は七十六年一月」
一方の中平の方は「インターリュード」、つまり幕間の間奏曲と題されてるいが、内容は、それまでのハードな批評文とは一転し、私小説つまりフィクションの語り口で、自分のフィルムやプリント、制作のノートなどが海辺で焼かれていく情景が淡々と綴られる。その異様な様子は、1977年の9月に、中平が泥酔し、昏倒してアルコール中毒による逆行性記憶喪失に陥ることを予言しているかのようであり、戦慄すら感じる。おまけに、その落ち着いた筆先が、実に確信犯的なものを漂わせている。
これは「交歓」である。決闘ではなく写真をめぐる確信犯同士の「交歓」。
中平は篠山との「決闘」の場を借りて自らの写真を再生させる。
「私は次第に写真から遠ざかり、ただゆきがかり上、写真と接するばかりになった。そんな時に、たまたまユジューヌ・アッジェ、ついでウォーカー・エヴァンズについて文章を書く機会をあたえられた……だがこの二つの文章は、まったく予想もしなかった篠山紀信との出会いを準備した」
その出会いは、唐突に訪れた交点であったがゆえに、アレ・ブレからのはっきりとした決別を模索する中平卓馬にエネルギーを与えた。「アッジェ、エヴァンズ、篠山紀信」と中平は書いているが、それは実は、「アッジェ、エヴァンズ、中平卓馬」というのが本音だったろう。また篠山にとっても気鋭の論客である中平と交点を結ぶことは、自分の写真の場所を測る上で重要だった。
中平は連載終了の第12回「パリ」、第13回「明星」の2回を使ってずばり「篠山紀信論」を書く。今までの連載では篠山に直接言及しない回もあったのに、この2回ははっきりと「篠山紀信論」に集中している。
中平が論の対象としているのは、篠山の1971年から1977年に出された写真集『オレレ・オララ』『晴れた日』『家』『アラビア半島』『パリ』。篠山紀信が「シルクロード」に取りかかり、赤塚不二夫がまさに篠山をキャラ化して「カメラ小僧」に仕立てあげているそのときだ。
篠山はこのとき、絶好調だった。生の絶頂と死が表裏一体であることを嗅ぎつける高機能の篠山のセンサーがフル活動している。その時代を捉える勘が、中平卓馬を選んだのだ。
篠山は対談で中平にこう言う。
「ぼくの中では、やはり『オレレ・オララ』がぼくを自由にしてくれましたね。その前までは、既成の写真美学っていうか、そういうもののしっぽをくっつけているというか、その中にどっぷりとひたり込んでいたところがあったでしょう。そういうところで写真を撮っていると、もうほんと、出口なしなんですよね。それに疲れるし。そんなとき、ぼくはリオのカーニバルへいった。サンバを踊っている中で写真を撮っているとね、ちょっとあそこへ行きたいなと思っても、歩いては行けない。みんなといっしょにサンバのリズムにのっていると、自然とそこへ行けるわけ。だからサンバを踊りながら、その中でシャッターを押すしかないでしょう。それの集積があの『オレレ・オララ』という本になった。そのときぼくはね、「ああ、写真ってのはこんなもんだ。これ以上でも、これ以下でもないな」っておもいましたね。あの『オレレ・オララ』を撮って、はじめて尾骶骨がふっ切れて自由を獲得した」
「自分の肉体全部を、でっかい目玉にしちゃうわけですよ」「肉体が健康なら、なんでもみえてくる」。篠山は、行ってきたばかりのシルクロードでの撮影で、2週間で5,000枚。パリでは2週間の滞在で4×5で600枚を撮ったと話し、中平をあきれさせ、驚かせる。たしかに美学や理屈に縛られていてはそんなに撮れるわけはない。篠山の写真は、たしかに「私」を超えて、事物が写った写真だ。アッジェ、エヴァンズと並べられ、篠山も嫌な気はしなかっただろう。
中平卓馬、篠山写真を語る
しかし、ここで複雑な「問い」がアタマをもたげる。
中平が言っている「写真」と、篠山の言う「写真」が、果たして同じものなのかという問いが。
中平が篠山の写真に見ているのは、実は、中平が求める写真であって、それは篠山の写真自体ではないのではないか。
そのような問いがアタマをよぎるのである。
中平は篠山の写真に出会い、自分の病的な写真観が一掃されたあまり、篠山の写真を褒めて、こうも言う。
「篠山紀信という男は、現実にあるものを、デフォルメしたり変形したり、あるいは美学で切り刻んだりしないで、ストレートにそのままもってくる、とったものは全部写真なんだという撮り方をやっている、と思うんだ」
ここでも中平は篠山を「ストレート」という言葉で表現している。篠山紀信の写真の持つ、「一切が明瞭であること、可視的であること、それと裏腹の関係にあるであろう世界の不可解さ、世界の迷宮性を語っているように思われる」とも書いている。
あまりにもあっけらかんと、全てが過剰なほどに表層だけになった世界。全てが晒されているがゆえに、価値や意味の遠近法が狂い、全ての事物が等価になり、他者や彼岸となり、われわれは当惑してしまう、そんな力が篠山紀信の写真の本質なのだと中平は書くのである。
「一種のだまし絵」「白日の下の意味の墓場」とも。実に中平のコトバは的確だ。
さらに注目すべきは、篠山におけるパンフォーカスに触れているくだりだ。
「彼はパンフォーカスによってすべてを同一平面上に置換し、そこから読者一人一人が見ることをあらためてまなぶように、つまり見ることによって世界を読み返すように、それらをひとつの資料のように投げ出してみせるのだ。それは、カメラ・アイと肉眼との相違を徹底的に意識化した方法である」
肉眼では、世界の全てのものが同時にピントがあって見えたりはしない。篠山は確信犯的に肉眼とカメラによって写真化できる世界の差を、さりげなく計算し、しなやかに、戦略的に使うことに誰よりも意識的なのだ。しかも見えすぎることは、理屈ではなくて、欲望、生理から生まれてくる。意図的でないのだから、これは分析者にはきわめて厄介だろう。
時代の欲望を写すメディアとなった篠山
しかし中平は篠山の写真を追い詰める。ここまで篠山紀信の写真の成り立ちを明確にした論はなかっただろう。にもかかわらず、中平は大きな見落とし、いや、篠山の写真を甘く見てしまったように思われる。
それは篠山の「私」を捨てるという過程を、中平自身のような苦行の果てに真実にたどり着くものというイメージを持ち続けたがゆえに起こる誤謬である。
篠山の目は無私ではあっても、それは大衆が見たいと思うものの代理であり、映し鏡にすぎない。篠山の無私は、徹頭徹尾、時代や読者のメディアとしての写真たらんとして獲得したものなのだ。それは例えば、アンディ・ウォーホルがインタビュアーに向かって、「何を喋ればいいか教えてよ。喋ってほしいことを喋るから」と言ったのと同じである。
その起点がずれたまま、決闘を偽装した連載が進んで行った。
全てがあまりに明らかなために、全てが虚にさえ見える。これはシュルレアリストがアッジェに見たことであり、中平が篠山の写真に見たことだった。あまりに等価ゆえに、遠近法が狂う写真を篠山は発生させる。この中平の分析も圧倒的に正しい。
しかし、決定的に読み違えていることがある。それは篠山の写真の本質である「実と虚の変換」を軽く見たことだ。
篠山のその後の活動がさらにそれを明らかにしているように、篠山は「実」の写真には向かわない。しかし中平は篠山を、事物のまま、ありのままの、「実」の写真だと位置づけてしまった。
「あなたを通じて発見したものっていうのは、すべてをのみこんでしまうほんとのストレート・フォトグラフィーみたいなもの」と中平は述べているではないか。確かにそのとき、篠山は、見えたものはみな撮れるという絶好調の「写真の健康」にいた。ある意味で過剰なほどの生の中で写真を生成させているので、中平がそう思ってしまっても仕方なかったのかもしれない。
しかし、篠山の生の写真は一筋縄にはいかない。
篠山の過剰な欲望、写真に生け捕ろうという生衝動の強さは現実をも変形し、写真としてしか存在しない現実を生む宿命に進んでいくからだ。
ここにおける写真の「虚と実」の話は実に重要だ。篠山がよく語り、中平も指摘しているように、スターたちは「虚」の瞬間にこそ「実」が現れる。「スターの実人生」などという陳腐なルポルタージュの方式を、篠山は採らないことを中平は見抜いたし、篠山もこう言う。
「ぼくはタレントの写真というのは、彼女たちの仮面をはぐということじゃなくて、むしろ仮面の上にもう一枚の仮面をつけることによって」
この篠山の発言を中平も引用し、「見えるものをより可視化することによって」と強調する。ここにおいてもまだ中平によるストレート・フォトグラフィーの拡大解釈が見られる。
話が合っているようで、別の話をしているのだ。
中平の篠山解釈の限界がここにあったと思われる。
人間存在、その全てが、虚であることが根本であり、写真も今や現実の真実(事物という名のリアル)を撮ろうとするものではなく、写真自体が強度を持った虚(表層)であり、写真は現実の代替物ではなく、写真というもう1つの現実なのではないか。
篠山の写真は、根本的に虚にシフトした写真なのだ。
写真とは「虚を増幅させるメディア」である
写真。真実を写すといいながら、篠山紀信はその写真メディアが虚を増幅させるメディアだと見抜いた特異な写真家であり、デジタルによってどのようなイメージも捏造可能になった現在における、先駆者として再配置されるべき重要性を持つ。
「より可視化する」という中平の指摘は、篠山においてはそれが「凝視」ではなく、「過可視化」へと向かっていくことを意味することを中平は見抜けなかった。
「過可視化」とは、より上手な嘘、大きな嘘をつく技術だ。そんなことは、中平卓馬の写真の辞書にはないものであった。
1977年、この『決闘写真論』が単行本化されたあと、中平卓馬は「アクシデント」に襲われる。本で自らが予言したように。
写真だけでなく、頭脳の中にあった写真論も、アレ・ブレを脱却し新生した「事物」の写真も喪失されてしまった。リハビリによって中平卓馬がその事物写真をギリギリ生成するまでに回復するのは、1978年『アサヒカメラ』の「沖縄 写真原点Ⅰ」、1983年の写真集『新たなる凝視』までかかることになる。
何と大きな切断だろう。
虚の道へ進む現代写真
宿命とは、何と不条理なものか。篠山と中平の『決闘写真論』を多くの人が、重要な書と認めつつも、無視しようとするのは、その呪われた出来事にも起因しているに違いない。
一方の篠山は、中平の論を乗り越え、ますます虚の世界に向かって邁進することになる。これは、かつてどんな写真家も誰一人として挑戦したことのない世界である。
今日的に言うなら、VR仮想空間のなかで、リアルな写真撮影を行なっているようなものだ。
その怪物的な生産力から「激写」が発明され、『135人の女ともだち』は大ベストセラーとなり、篠山はかつてどの写真家も達したことのないスター写真家となり、自らも虚の世界の住人となった。
激写という言葉は、社会現象にまでなり、世界に類のない日本独特のセクシュアリズム、のちの「アカルイ/クライ ハダカ」につながる裸写真、そしてさらには近作の「快楽の館」「LOVE DOLL」「INNOCENCE 処女の館」へと、写真のさらなる「捏造」は止むことがない。
しかし忘れてはいけない。その強度ある表層、虚の進化は、時代の欲望の要請だったということを。決して篠山紀信は、ただ時代の波に乗って生き延びてきた者ではない。時代がすべてを嘘の世界に導き、日本を、東京を虚の都にしていったのではなかったか。
篠山はただ誰よりも過剰なほど誠実に、時代の映し鏡としての写真、メディアとしての写真という原理を守って虚への道を進んでいるだけなのだ。『決闘写真論』のすぐあとの80年代に篠山は、虚の写真である「シノラマ」を発明したが、常に時代を巧みに増幅する技術を開発している。それは今現在も変わらない。
その篠山の写真が切り拓く虚の写真世界を、中平卓馬が健康であったなら、なんと批評しただろう?