Re-think 現代写真論――「来るべき写真」への旅

第06回 TOKYO LOVE1994→2018
荒木経惟とナン・ゴールディンの変成

ナン・ゴールディンのモティーフ

 今回は2人の写真家、ナン・ゴールディンと荒木経惟を軸に、90年代の写真の「現在における変成」について考える第1回めにしたいと考えている。

 それは2018年の春、奇しくも2人の「事件」のニュースに、ほぼ同じくして遭遇したからである。

 ナンはOxyContinアディクトをめぐる事件、そして荒木経惟はKaoRiさんをめぐる事件であり、ともに日記的表現、ナラティブな表現のありようの今について、再考を強いるものだった。

 僕の写真経験(とりわけ90年代)と思考において、荒木経惟とナン・ゴールディンは切っても切れない重要な結点を形づくっている。

 その結点とは、1994年11月14日から12月25日まで資生堂が運営していたザ・ギンザ・アートスペースで開催された、荒木経惟とナン・ゴールディンによるコラボレーション展「Tokyo  Love」である。

 僕は企画から制作、展覧会キュレーション・写真集編集を担当した。写真集は展覧会に合わせ発行され、翌年にはスイスの出版社Scaloからも世界発売された。

 今や歴史の時間が単線的なものではなく、回帰しながら再編、再生されつつアップデイトされていくことは、「史観」などと大げさに主張せずとも、今のネット社会では当たり前の感覚だろう。ちょっと前のものがリターンして、今・ここのものと混じり合って、「別モノ」になって日々がひたすら流動的に過ぎていくことは、Google検索やYoutTubeを日常的に使う者には当然のこと。

「大きな事件」も些末な日常の1つに過ぎず、以前ほど、過去も今も未来も強度を持たなお。生きるリアルは、異常気象や地震、戦争、死などのカタストロフが呼び起こしてくれるしかないのだろうか。

 しかし2018年1月の終わり頃、Facebookのタイムラインを見ていて、あるニュースに目が止まった。ちょっと驚いた。それはイギリスの新聞「ザ・ガーディアン」の記事でナン・ゴールディンのものだった。

 タイトルは「“I don’t know how they live with themselves” – artist Nan Goldin takes on the billionaire family behind OxyContin」。記事の合間に掲載されている、64歳を迎えたナンのセルフポートレイトは憂鬱そうに見えた。しかしそれは、従来の彼女のナラティブな写真スタイルを反復するものだった。

 何があったのだろう?

 何が起こっているのだろう?

 記事によれば、ナンは2014年以降OxyContin(オキシコンチン)の中毒にかかり、リハビリしていたが、昨年の春にマサチューセッツの治療センターから復帰したという。ナンが「再び」中毒に陥っていたとは、知らなかった。オキシコンチンとは商品名だが、オキシコドンという、元々はがん疼痛治療薬だ。オピオイド系の鎮痛剤の1つで、アヘンに含まれるアルカロイドのテバインから合成され、麻薬及び向精神薬取締法におけるれっきとした麻薬なのだという。

 治療所から出たナンは、オキシコンチンを販売しているのがパーデュー・ファーマ社であり、依存や乱用性が少ないと誤解を招くようなブランド戦略で莫大な利益を得ており、かつ詐欺的なキャンペーンを行なったとしたとして、6億ドルの罰金有罪判決が下されていることを知る。その背景に会社を所有するサックラー家がいることをナンは知るのである。

 サックラー家はメトロポリタン美術館や大英博物館、スミソニアン美術館のギャラリーに「家名」が冠され、その資産が140億ドル(約1.5兆円)という大富豪ファミリーだが、秘密主義で知られる。美術館などに多額の寄付を行う大パトロンでもあるが、ナンはこの欺瞞を告発すべくP.A.I.N. (Prescription Addiction Intervention Now)という名の団体を組織し、3月にはメトロポリタン美術館のサックラーウイングでOxyContinを集団でプールへ投げ込む抗議行動をとるにいたった。

 アディクト、回復、アクティヴィズム。何が繰り返され、そして「別の」歴史が始まろうとしているのだろうか?

 フェイクニュースの世の中で、ナンはまた新たな「リアル」な物語写真、ナラティブを生み出すことができるのだろうか?

 話を進める前に、ナンのことを少し書いておいたほうがよいだろう。ボストンで育った彼女は、18歳の時に写真に目覚めるが、それはまた同時にドラァグクィーン(女装するゲイ)との出会いだった。写真は、彼ら逸脱者へのオマージュであり、自らの記録だった。1978年以降写真を本格的に学ぶためにニューヨークへ移るが、ドラッグと酒とセックスの泥沼に陥ってしまう。

「あの頃は人生を変えようにも、人生なんてなかった。生きてる感じがしなかった。麻薬中毒の症状がものすごく深刻になって、ついには6カ月間も家から出れなくなってしまったわ」そう過去を振り返り、僕に語ってくれたことがあった。

ナンの初期の代表作は、なんと言っても『性的依存のバラード(The Ballad of Sexual Dependency)』である。1970年代末から1980年代の彼女の人生を記録した写真群に、音楽をつけたスライドショーだ。1985年のホイットニー・ビエンナーレで初めて展示され、翌年にフォトブックとして出版された。これはニューヨークでの彼女の共同生活を被写体とし、「拡大家族」をテーマとしたものだった。このテーマは、現在においてますます重要だと思われる。

 ナンが生み出した写真のスタイルはインティメイトな日常スナップ「日記」であったが、それが別の意味を帯びる「変成」がやってくる。1988年にドラッグ治療のためにボストンに戻っている間に、何人ものニューヨークの「拡大家族」の友人たちが死んでしまったのだ。死因はHIV/AIDSポジティブ、エイズだった。ニューヨークのノンプロフィットギャラリー「ジ・アーティスト・スペース」からの依頼で、ナンはエイズで死んだ人々に捧げる展覧会をキュレーションし、瞬く間に「エイズと写真(アート)」の渦中の人となっていく。ジョン・ウォーターズ監督映画の主演女優で、ナンの親友だったクッキー・ミューラー夫妻がエイズで死んだこともナンに使命を与えた(また同時期に、写真家のピーター・ヒュージャー、ロバート・メイプルソープ、アーティストで批評家のデビッド・ヴォイナロヴィッチら多くのアーティストたちも相次いでエイズで死んだ)。

「拡大家族」とエイズは、もともとは無関係なテーマであったが、それは80年代のアメリカ都市文明の自壊の中から生み出された同根のものであった。ナンは宿命的にwitness(目撃者)になり、日記的に撮られていた写真の意味は変成する。エイズによる死のカタストロフは、彼女をデプレッションに陥らせるが、しかし彼女はそれを写真を撮り続けることで克服し、死を生へと変成させる。彼女の伝説的なスライドショー版の『性的依存のバラード』は今見ても感動的だ。再生、ポジティブなオーラに溢れていて、今も色褪せない普遍性を持つと思う。

 ナンのナラティブの生成には、このようなプロセスがあった。

 

90年代、写真にとって「リアル」とは何だったのか?

 僕とナン・ゴールディンとの遭遇についても書いておこう。それは1992年の冬から翌年にかけて、ニューヨークでのことだった。僕は日本船舶振興会から依頼された仕事で、ニューヨークにおけるエイズ救済の取材(これは『Together』と題された大判のグラフ雑誌のためのものであり、僕は写真家・上田義彦と組んで、エイズ感染者のポートレイトやメイプルソープの遺品などを撮影した。ラフォーレミュージアム原宿で写真展も開催したが、この話は別章で詳しく書く)と、そして同時に、YMOの再生アルバムのレコーディング『テクノドン』の編集者という、驚くほど全く異なる2つの仕事のために長期滞在していた。

 しかし側から見れば、全く別に見えるであろう2つの仕事も、僕の中では、大きな1つの問いの2つの面でしかなかった。

 それは何か?

 90年代と写真をめぐる「リアルとは何か?」という問いであった。

 90年代初頭、バブル崩壊後の東京は、経済的なリセッションの影響によって、それまで湯水のごとく制作費を使っていたコマーシャル写真(写真家)が、死滅へ向かった。欧米の写真をモノマネした「虚栄の写真」は、不要になったのだ。

 それに変わって新しいタイプの写真家たちが、雑誌やストリートから出現する。高橋恭司を先行者にホンマタカシ、大森克己、佐内正史などが、ウィリアム・エグルストン やスティーブン・ショアたちの切り拓いた「ニューカラー」的な世界を、隔世遺伝的に日本に移植して、不思議な花を咲かせることになったのである。彼らはカラー写真を自らプリントして、日常の「儚さ」「まなざし」「小さなナラティブ」を表現した。彼らとの仕事は、僕個人にとっても、本格的に写真にのめり込むトリガーとなった。

 バブル崩壊というカタストロフのあとにもかかわらず、日常は奇妙な「ナギ」の中にあった。とはいえそれは「新たに迎えたリアル」の世界であり、出口の見えない、小さな差異しかない退屈の中で、写真が生成されていった。90年代中盤以降、HIROMIXや長島有里枝、蜷川実花らは、退屈で同調圧力のかかる世界の中で、写真をサヴァイバルの道具にして、健気に生きようとした。  

 東京から離れニューヨークで連日、NPO団体のゲイ・メンズ・ヘルス・クライシスで何十人もHIV/AIDSポジティブの人たちへのインタビューをしたり、エイズとアートについての取材を繰り返す日々を過ごしていて、同じ「日常」における「リアル」の「重さ」の差異を写真はどう扱うことができるのか、という問いが頭を離れなかった。

 だからエイズの渦中にいるナン・ゴールディンと親しくなり、YMOのアルバム『テクノドン』の録音スタジオやニューヨークでの日々の「記録」の仕事を引き受けたい、と彼女が言ったときには、整理のつかない混乱の中に、時空の歪みの中に、身を投じる気持ちだった。

 どのようなリアルのバイパスが生まれるのだろう?

 ナンは自分も参加したホイットニー・ビエンナーレ1993の会場にYMOのメンバーを誘って、自分が撮った「拡大家族」の展示写真の下で撮影した。それらの写真はナン・ゴールディンが日本で発行した写真集『Not YMO』(1993)に収録されているので見ることができる。

 ナンにとっての写真は、単なる記録・記憶のためのものではなく、彼女とっての「家族」を形成するためものだ。基本的には、これは作品、これは仕事などとわけられない。だからかもしれないが、この写真は今見ても、過渡的で落ち着かない。

「私」のナラティブ。それが成立するためには、「私」もまた拡大していかなければならない。写真も拡大していかなければならないのだ。旅を止めるわけにはいかないのだ。今も。

 ナンの挑戦はさらに続く。東京でのイベントのために来日したナンと一緒にタクシーに乗っているときだった。彼女は東京で写真を撮り出していた。それはナンによれば、若者たちが美しくエネルギーに満ち刺激的なのに興奮して、生涯で初めて街の中で写真を撮り始めたのだと言った。そして、東京にしばらく滞在して撮るための方法を僕に相談した。

「荒木さんとコラボレーションするアイデアはどうかしら? 彼とは世代は違うけど、この20年間私たちが撮ってきた私的な作品は、他のどの2人より似通っていると思う」

 僕は荒木さんと資生堂に話を持ち込み、瞬く間にプロジェクトは進行していった。

 ナンは似通っていると言ったが、果たしてそうだろうか? その「リアル」の差異、違和感は今も続いているのだが。

 僕はそれまで、荒木さんにインタビューしたことはあったけれど、撮影の仕事はしたことがなかった(ちなみに僕が荒木さんとした仕事は3つ。最初が1991年の鈴木清順監督『夢二』の写真集/高橋恭司と共著。2つめが『TOKYO LOVE』。最後が時価総額13億円分にのぼる宝石の数々と花とが交じり合う姿を撮影してもらった、2008年の写真集『YAMI NO HANA』。改めて考えてみるとナラティブなものがない)。

『TOKYO LOVE』のプロジェクトについての説明に伺うと、すぐに快諾していただけたことをよく覚えている。

『TOKYO LOVE』(Goldin, Nan.Araki, Nobuyoshi.太田出版.1994.)


 荒木さんは、1990年に妻・陽子さんを子宮ガンで失った。闘病と並走する日々を撮った『センチメンタルな旅・冬の旅』(1991年)をめぐり、写真の「虚と実」の意見の相違から、それまで親友であった篠山紀信と決定的に「絶交」にいたった時期に当たる。また1993年は亡き荒木陽子のエッセイに写真をつけた『東京日和』も出版されるなど、写真と死を超えて、新たなフェーズに向かう季節に当たる。1996年からの『荒木経惟写真全集』20巻に象徴されるように、押しも押されぬ「世界のアラーキー」へとブレイクしていく時期である。

 その意味では、『TOKYO  LOVE』は荒木経惟の写真史においてきわめて異例なものだろう。この後再録する当時の対話を見るとわかるが、東京で解き放たれ、自らの文法で「拡大家族」を撮影するナンに対して、荒木経惟はナラティブな「私写真」を封印し、ひたすらスタジオで女の子たちを撮影し続ける。荒木さん用の被写体は、当時の『smart』誌編集者に依頼して、新宿のクラブでハントした。その中にいたのが高校生のHIROMIXだった(これがきっかけとなりHIROMIXは荒木経惟が審査員をしていた写真新世紀でグランプリを受賞する。指導したのは『TOKYO LOVE』自体を記録化していたホンマタカシである)。ちなみにナンの被写体の中には、長島有里枝などの写真家も入っており、90年代の記録としても重要だ。

 ナン・ゴールディンは当時のインタビューで2人のコラボについてこう語っている。

「おもしろいわ。まったく対照的で。私は最初、私的な物語風なものを期待していたんだけど、彼はカタログのように真正面から撮った。でも結局この違いがうまく作用したと思う」

「私写真」は、今や荒木経惟の発明と言ってもよい表現形式だろう。それまでも「偽日記」や未来の日付の写真を生成してリアルを相対化してきたけれど、陽子さんの死に当たってはプレイフルでフェイクな姿勢を封印し「真実」に固執した。

 一方のナン・ゴールディンは、一貫して「写真はその人に触ること」「被写体が拒否することは撮らない」つねに「integrity(正直さ、誠実さ)」を自らの原理として公言してきた。したがって、荒木の中にもその「リアル」を当然のこと期待したのだろう。

 今から思うと奇妙なことに、写真集には互いを撮った写真は、1カットも収められていない。

 それはなぜだったのだろう?

 

写真の絶妙な達人・荒木経惟

 ここでその『TOKYO LOVE』がどのような結点として進行したか。そのドキュメントがあるので、引用しておきたい。それは1994年11月号の『アサヒカメラ』。僕が執筆したルポである。掲載原稿の、まず前半部分を引用する。
 

 ライトボックスで荒木経惟は、数日前、アートセンターで撮影したばかりのティーンズたちのポジをチョイスしながらナン・ゴールディンに話しかける。

「要するにさ、この写真は、東京のティーンズたち、高校生の“複写”なんだよ。だから、わざと“影”をつけて“複写”っぽい仕上がりにしたいんだ」

 白いホリゾントの前に、その日着てきた格好のままで女の子が立っている。バックには、赤や緑の簡単な光を入れただけで荒木は撮影を始める。ライティングしているにもかかわらず、カメラに“内蔵”されたストロボを使ってわざわざ影を出すというやり方をとっているのだ。

「こっちの表現なんかにしようと思ってないんだ。向こうが表現してるからさ。ナンは、ちょうど今の季節、つまり春と同じで、東京のいろんなところへ行って“スプリング・フィーバー“春情”してんのね。それは東京の“春情”です、ナン自身の“春情”でもあるわけよ」──荒木は笑いながらそう言った。

 3月の頭に来日して以来、ナン・ゴールディンが被写体を求めて出かけない日はなかった。ボディー・ピアスをした女の子をラブホテルで撮り、少女売春をやっているという女の子のマンションを訪ね、ゲイのカップルと仲良くなり、そうかと思うとスキンヘッドで鼻にピアスをした写真家の長島有里枝とアルタ前で待ち合わせして、深夜新宿二丁目のドラッグ・クイーンのバーをハシゴしたりする日が続いた。クラブのゲイナイト、オープニング・パーティーからバースデー・パーティーまで、“自分”と関係ある人を彼女は求め続けたのである。

 ナンが東京の、表には見えないアンダーワールドに入り込み“関係”を撮ることで東京“チェンジ”を浮かびあがらせようとしたのに対して、荒木経惟のとった方法は全く逆だった。彼は六本木にあるアートセンターのスタジオに一回に10人から20人のティーンたちを集めて5時間ほどかけて撮り続けた。どんな女の子を被写体にするか、それは一切決めなかった。新宿のクラブやストリートで遊んでいる女の子たちに声をかけておき、撮影の当日、友だちを何人でも連れてきてよいというやり方で撮影は行われたのだった。「ノーチョイス」。荒木は被写体を選ばないで、そしてその顔やファッションそのものの中に東京の“チェンジ”を写しとろうとしたのである。

「女の子たちは、荒木のことをしっかり見ているわね。荒木が以前撮っていた女性より、ものすごく強い写真だと思うわ」

「いや、今回、ナンの写真が強いからそれに負けないようにさ(笑)。ポートレートっつーのは、これはいつかやろうと思ってたことなのよ。状況とか背景とかを無の空間にしてやるっていうのを、集中してやってみようと思ってたんだ。今回はナンとのコラボレーションっていう、いいチャンスだから、ぴったりなんだ。100人ぐらいは軽くいくなー」

「荒木と女の子のコラボレーションでもあるのよ。10代の女の子たちって、自分に自信があって、挑戦的でタフにみえるわ。完璧に美しいとか、きれいっていうんじゃないところがいい。今まで荒木が撮ってきた女の子って、縄でしばられたり、自分でコントロールできなくて、“受け身”でいたのに、今回の女の子は強いわ」

「オマージュだからね。今まであたしがやってきたのは、あたしの世代が考える女性だったんだけど、違うね。すごくイマージュが喚起されるものに出あった時には、それにオマージュを捧げていく。そのほうが強いの。(ポジを見ながら)おっ、これ好きなんだ。この子はものすごくいい。男の2、3人は知ってるよな、16歳!!」

「クローズアップが好きだわ。見つめ方がすごく深くって。みんな中性的な感じもして不思議。この子が持ってるマクドナルドのバッグは何なの?」

「あれもファッションなんだ」

「本当に!?」

 

 和気藹々とやりとりが行われているように見えるが、互いの写真についての判断はきわめて鋭い。なかでもナンが、被写体の女の子たちが非常に強く、荒木をしっかり見ており、一方的な被写体ではなくコラボレーションなのだと見抜いていることだ。

 一方の荒木経惟も、状況やナラティブという自分の文法を捨てて、白ホリをバックに女の子たちを標本のように撮る。しかしそれは単にモノとしてコレクションしたいという戦略ではなくて、徹底して丁寧に表面を複写したほうが「リアル」が写るという見事な判断である。

 荒木経惟は写真の絶妙な達人である。それはあるときには、写真機を独裁者のように活用して自己表現の道具とすることもできるし、自らの表現主体を消して、写真自体の欲望のままイメージを手に入れられるとやってのけられることを意味する。『TOKYO LOVE』の撮影時も、スタジオには様々な写真機が並べられ、撮りわけられていた。写真機が違えば写真もちがう。リアルが違うことをよく知っているのだ。

 ウソもホントも撮りわけられるし、欲しいイメージを手に入れるためなら、口八丁のレトリックを繰り出すことだってやる。いつだって撮影現場はアラーキーの世界であり、もはやそこは劇場。虚構なら全てはプレイであり、夢の中のように逸脱は許される。

 そのようなスキャンダラスでトリッキーな手法は、世界に黙認されていき、荒木経惟は名実共に「巨匠」となってしまった。

 写真は、写真のためなら何でもやれという。

 写真の劇場。

 しかし世界のリアルもモラルも高速で流動化していく……。

 

ナラティブの方法論

 2018年4月に荒木経惟の被写体だった(2001年から2016年までミューズとして扱われた)KaoRiさんのブログが公になった。それは「その知識、本当に正しいですか?」と題された長文のものであった。

 2人のやりとりの真偽や善悪についてここで語るつもりはない。この事件がナンとは別の形で僕の心を捉えたのは、やはり写真における「ナラティブ」「私写真」という方法が「変成」を迫られたということだった。どうして荒木経惟のナラティブの方法論が、賞味期限切れに直面し、失効してしまったのかという問題だった。

 KaoRiさんのブログをめぐっては、様々な意見がかわされ、ネタが掘り起こされたが、僕も多くの人と同様、アーティスト森村泰昌が1996年1月臨時増刊号の『ユリイカ』「総特集=荒木経惟 写真戯作者の55年」で書いていたエッセイの予見に驚かされた。

 森村は、アラーキーは被写体である女の子たちにとって、自分の上等なセルフポートレイトを写すための道具に過ぎないと、述べるのだ。そして文末では、「やがては彼女達が写真機を持つことになる。いや事実持ち始めた。そうなればアラーキーという道具は廃棄処分にされる」と締めくくっている。写真の中に、出入りしてアートを生成してきた森村ならではの炯眼だ。

 そして、これは奇しくも、ナン・ゴールディンが指摘したことと同じだ。

 ナンは、ダイアン・アーバスの写真と自分が比較されたとき、「わたしは彼女が写真の被写体にしていた側にいたの。そこから写真機を持って出てきたのよ」と述べたことがある。ナンが被写体との関係性を重視するのは、つねに被写体の側から写真を成立させるモラルに由来するものだ。

 さて、ここで1994年の『TOKYO LOVE』のメイキング・ドキュメントに再び帰りたい。
 

 荒木は90年代東京のティーンズを、ナンはアウトサイダーたちを撮影しつづけ、週に1回ぐらいの割合で、それぞれの写真をそこに持ちよって、スライド映写しながらミーティングを行った。コラボレーションのあり方をめぐって議論になることも何度もあった。

(中略)

“「ナラティブ」な、つまりストーリー性を感じさせる写真を、荒木は今回どうして撮らないのか?”、“ヌードは撮らないのか?”

 ミーティングの際に、ナンは必ず荒木に質問を繰り返した。それに対して荒木は、試みながらも、次第に「ポートレート」へと逆に絞り込んでいった。

「じゃあ、ナンが撮ってきたものを見てみようか」。ナンは簡単に説明を加えながら次々に投写してゆく。

「これはティーンエイジのドラッグ・クイーン」。両面には、女装して踊る男たちのショーを写した赤い画面があらわれる。「いいねえ」。反射的に荒木が声を上げる。続いて、酔っ払ってキスしあうカップルたちがあらわれる。

「アケミとタモツ。この日はアケミの誕生日だったんです。2人はまだ付き合いはじめたばかりで……。こっちはアケミの部屋での写真です」

「おーっ、撮ってるねえ。いい感じだね。2人の関係性が出てるんだよ。部屋とか風俗のディテールがものすごくあるね。2人の関係性と時代の関係性のディテールを撮るといいんだよ

 荒木は、ナンのスライドを見ながら、東京に来て最初のころ撮っていた“ドキュメンタリー風”なカットが排され、“官能性”が出てきたと言った。

「被写体との距離がいい意味で縮まってきてる。35ミリでどんどん撮って、被写体を“本能”で撮ればいいんだよ。1点の名作にしないで、恋愛関係って感じでやればいいんだよね」

 撮影しはじめてから約3週間たって、ナンもやっと“撮れた”という手応えを感じはじめたようだった。

「この写真のチカとミカは今の時点でいちばん仲良くなった2人なの。ニューヨークでかつて撮影してきた人たちと同じ気持ちで撮れたわ」

 ナンがリラックスして微笑むと荒木はこうつけ加えた。

「あたしがよく言う“私写真”って身内を撮るってことじゃないんだよ。フレーミングにしても、シャッターチャンスにしても、決まりきらない。“作品”にならないってところが“私写真”ってことだからさ」

「こうやって荒木のスタジオで一緒に写真見てると、荒木は私の先生みたいな気がしてくる」

「なに言ってんだよ。あらたまっちゃって(笑)。ナンの写真見て思うのは、写ってるやつの存在感もうたってるし、相手の生き方を尊敬して、肯定してるからいいんだよな」

「タイトルはどんなのがいいかしら?」

「“トーキョー・ラブ”っていうのはどう? あたしとナンのラブ(笑)」

「私自身は桜の時期にいたっていうこことで“トーキョー・スプリング・フィーバー”って好きなんだよ」

「ちょっと文学っぽいかな。ま、やりながら考えればいいよ。そんなことよりお花見行こうよ。来週の月曜は春分の日なんだ。その日のことを日本じゃ“お彼岸”っていうんだけど、好きだった人が死んじゃって、その人のお墓参りに行く日なの。青山墓地とか行くと、ナン、面白いよ。お墓でお花見やってっからさ」
 

 荒木経惟がつくり続けてきた「私写真」とは一体何だったのだろう? 確かに、陽子さんとのセンチメンタルな旅の一連のナラティブは、かけがえのないものとして心を打つ。それは「作品」にならないがゆえに、逆説的に名作となった。「私写真」の傑作。しかしだからと言って、そのナラティブの仕組みを、行きずりのモデルに反復して活用できるのか?

 写真の虚実性を操り、つまり、被写体の女性を「女優」だとか「ミューズ」の「役」として持ち上げながらも、実はイメージの収奪が行われていたとしたら(スーザン・ソンタグが生前、荒木経惟の写真は「ポルノグラフィ」でしかないと言い続けたのは、この点においてだろう)、果たして生み出され残された無数の写真の運命はどうなるのだろう?

 

写真のナラティブはどのように再編されるのか?

 写真は残酷であり、かつ貪欲である。

 誰でも携帯で高画質の写真や動画が撮れ、セルフィーの写真も自在に可愛く加工できる時代においては、「写真家」もアップデートしなければ、即お払い箱だろう。

 おまけに、何を撮るか、どうセレクトするか、どんなナラティブに編集しアーカイブすればよいか、それらは全てAIのサポートで確実に進んでいく。

 過去の失効は悲しいが、しかし同時に、新たなバイパスもドライに生み出されていくのだ。

 確かにナン・ゴールディンは、『TOKYO LOVE』のあと、1996年にはホイットニー美術館でワンマンショー『I'll Be Your Mirror』を成功させ、また2007年には写真のノーベル賞といわれるハッセルブラッド国際写真賞も受賞し巨匠となった。

 荒木経惟もまた巨匠だ。写真集はすでに400冊を超えてしまった。2017年には、東京都写真美術館、東京オペラシティアートギャラリー、ラットホールギャラリーの同時3カ所。丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、art space AM。2018年も国内ギャラリーでの個展はほぼ毎月、ニューヨークのMuseum of Sexでの「The Incomplete Araki: Sex, Life, and Death in the Works of Nobuyoshi Araki」は#MeTooの論争の只中で、賛否両論を国際的に引き起こしている。

 正直なところ僕にとって、現在起こっているナンのアクティヴィズムも、荒木経惟の騒動もさして興味がない。それよりも、各々の「事件」を通して、どのようなナラティブの写真が次代において再編・再生されてくるかということに関心がある。

 本格的なネット社会に突入したのは『TOKYO LOVE』のすぐあと、90年代後半のこと。予想を超える速度で、仮想空間からのフィードバックがわれわれの現実感覚を変成させている。現在のSNSでの炎上やフェイクニュースなどは、明らかに人々のリアルについての変成が加速化している現れだ。

 このような中で、2人が「事件」の渦中から、どんなナラティブの写真を紡ぎ出すことができるのか?

 いや、もうできないのか?

 それを今、注視しているのである。