夢の中で、私は講演をしていた。いつものぼそぼそした喋り方ではなく、演説といっていいような堂々たる声の張り方である。
「これはジャンボ差行為であります!」
そう叫んだところで目が覚めた。寝惚けながらも、じゃんぼさこうい、じゃんぼさこうい、と繰り返して、なんとかスマホにメモをする。先日の「エソントク」に続いて、また一つ夢の中から現実の世界へ言葉を持ち出すことに成功した。「エソントク」の場合は、すぐに検索してそんな料理は現実には存在しないことを確認したけど、今度は確かめるまでもないだろう。「ジャンボ差行為」なんて言葉、聞いたことがない。ただ、まったく意味不明というわけでもない。別次元の行為とか、大違いとか、そんなことを云うつもりが、夢の文法によって奇妙な言葉に変換されてしまったようだ。大枠は現実の世界像に従いつつ、細部に独特のアレンジが生じる。そこが面白い。
別の夢では、私は見知らぬ部屋の中にいた。室内の様子を観察してから扉を開けて次の部屋へ。入った瞬間に周囲に視線を投げて細部を確認。どんどん扉を開けて、それを繰り返す。これでもか。これでもか。これでもまだ夢の世界には細部が存在できるのか。と、次の部屋には扉がなかった。おっ、と思う。こちらの動きが速すぎて瞬間的に細部まで設定しきれなくなったんだろう。だからといって扉自体をなくしてしまうとは。無茶苦茶だ。こんな部屋、変だぞ。
次の短歌を思い出した。
旅先の乗換駅にもNOVAがある神様意外と丁寧ですね 山本まとも
作者はこんなコメントを残している。「絨毯の下の木目だとか、知らない家の玄関の遊び道具だとか、私が認識しないまま死んでもいい細部も作りこまれているのを見たときに、世界の確かさを少し感じます」。よくわかる。初めて行った岬に土産物屋があって手に取った置物の色がズレていたりすると、妙に感心してしまう。こうして自分の部屋にいる今も、あの岬にはあの店があって色のズレた置物を売っているのだろうか。私が行った時だけセットが組まれて、帰った後は「はーい、おつかれー」とばたばた解体されたのでは。というのが、私一人の妄想ではないからこそ、細部の作り込みに心を奪われた作品が次々に作られるのだろう。
図書館の駐輪場にあるチャリに札がついてる「僧侶専用」 はつにか
終電のトイレにしらすが落ちていた。かみさまだっていきものなのか。 秋元若菜
ただの「チャリ」や何も落ちていない「トイレ」でまったく問題ないし、アレンジするとしてもせいぜい職員専用とかフリスクくらいで充分だろう。にも拘わらず、わざわざ「僧侶専用」や「しらす」を出してくるところに神様の気合を感じる。細部は無限にありますよ、というアピールか。そんな現実世界とは違って夢の創造主は私の無意識。だから、そこまで鋭く作り込むことができず、部屋から扉を消すなんてご都合主義になってしまったのだろう。
冬。どちらかといえば現実の地図のほうが美しいということ 穂村弘