絶叫委員会

【第157回】ゾウシとミジョウ

PR誌「ちくま」11月号より穂村弘さんの連載を掲載します。

 学生の頃、雑談中に同級生の一人が何かの勘違いを指摘されたことがあった。その内容は忘れたけど、本人の反応はこうだった。

「え、そうなの? そうなんだ! 全然知らなかった。どうせあたしは『ゾウシが深い』って読んじゃう女だよ」

 一瞬、何を云ってるのか理解できなかった。やがてなんとなく意味がわかってくる。「造詣が深い」か。たぶん「詣」を「脂」と間違えたんだろう。正解は「ゾウケイが深い」だった。四十年も前のことなのに、何故かその場面をよく憶えている。指摘されたこととはまったく別件のミスをわざわざ披露するのが面白かったのだ。
 だが、「ゾウシが深い」くらいの間違いは万人の中に眠っていると思う。いつかどこかで爆発する時限爆弾のようなものだ。できれば友だちと二人だけの時に優しく指摘されたい。やばいタイミングでの爆発は避けたい。でも、自分では選べないところが困る。前にも書いたことがあるが、或る知人はラジオに出演中に「アカララ」と云ってしまったらしい。正解は「セキララ」である。赤裸々。
 子どもの頃、私は「パジャマ」を「タマジャ」だと思っていた。大きくなってからも親たちがその話を何度も繰り返すのでうんざりした。でも、彼らにとっては幼い子どもの間違いは一種の宝物らしい。一生「タマジャ」のままでは困る。でも、「パジャマ」へと認識が修正された時、その子どもから何かが失われるのだ。

 「やさしい鮫」と「こわい鮫」とに区別して子の言うやさしい鮫とはイルカ
松村正直
 かみさまの言葉を忘れてゆく子供擬音をつかわず「かみなり」という
戸田響子

「やさしい鮫」の正体が「イルカ」だと知った時、「擬音」でしか表現できなかった現象に「かみなり」という名前があると知った時、子どもは今ここにしかない間違いを失くして、その代わりに世界中の誰もが知っている正しさを得ることになる。「かみさまの言葉」は二度と返らない。
 何かを好ましいと感じた時、妻は「ミジョウがあるね」と云うことがある。「?」と思いながらも雰囲気で「うん」と答えていたのだが、或る日、思い切って尋ねてみた。

「ミジョウって何?」
「え、ミジョウって云わない?」
「うん、方言?」
「いや、アナウンサーとかも云ってるよね」
「聞いたことないんだけど……」

 妻は携帯電話を掴んで何かを調べ出した。

「ほんとだ。辞書にない。ミジョウって言葉なかったんだ!」
「いつ、どこで、覚えたの?」
「わからない。子どもの頃からずっと使ってた。誰もなんにも云わなかったよ」

 会話の中ではなんとなくわかる感じがするから、みんな流してしまったんだろう。

「どういう字を書くの?」
「え! 考えたことなかった」

 それも不思議な話だ。でも、「味情」とかかなあ。回数は減ったけど、彼女は「ミジョウがあるね」と今も云っている。

 

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