テレビを点けたら女子のマラソンをやっていた。なんとなく、ぼーっと眺めていたら、解説者の言葉が耳に入った。
「〇〇選手は歌が上手なんです。カラオケの十八番は××で……」
え? と思わず画面を見直してしまった。苦しそうな表情が映っている。この人がカラオケで「××」を、と微妙な気持ちになった。当たり前だけど、今の様子からはその曲を熱唱している姿はまったく想像できない。
もしもこれが短距離走とかフィギュアスケートとかバスケットボールだったら、その解説者の発言は競技中のコメントとしてまずあり得ないものだと思う。でも、マラソンは特別だ。二時間以上という長丁場で、かつレースの展開によっては変化が少ない時間帯が続く。だからこそ用意されたネタなのだろう。それにしても、「カラオケの十八番」というチェックポイントは意外だった。
先日、やはりテレビで古いSF映画を見ていた時のこと。途中から隣に来た妻が云った。
「この人が主役? それとも丸坊主なのにちょっと分け目がある人の方かなあ」
え、そこ? と思う。確かに二人がライバル関係みたいな位置づけだったから、どちらが主役か迷うのはわかる。ただ、その片方が「丸坊主なのにちょっと分け目がある人」という認識はなかった。本人も自分がそういう人だとは気づいてないだろう。でも、妻にとっては迷いなくそうらしい。
映画のラスト近くで、「丸坊主なのにちょっと分け目がある人」は、死んでしまった。地球の運命とそれまでずっと喧嘩ばかりしていたライバルの命を守るために。残された一人は悲しみを堪えながら「彼のために最高の栄誉を与えていただけるようにお願いします」と司令官に頼んでいた。
長年一緒にいても、妻のチェックポイントの不思議さにはなかなか慣れることができない。例えば、『刑事コロンボ』の中で主人公のコロンボ警部が好物のチリコンカンを食べているのを見た時の感想はこうだった。
「チリコンカンっておじさんみたいな匂いだよね」
確かに独特の香辛料を感じる。だが、あれが「おじさんみたいな匂い」とは知らなかった。
でも、と思う。このまま時間が経ったら、マラソンの〇〇選手について私が知っているのは「カラオケの十八番が××」ってことだけ、古いSF映画について憶えているのは「丸坊主なのにちょっと分け目がある人」が出ていたってことだけになるんじゃないか。そして、『刑事コロンボ』のチリコンカンを見るたびに「おじさんみたいな匂い」と感じてしまう。スポーツや映画やドラマの主題はそこではない。もっと大事なことがあったはず、と思いつつ、それが何だったか思い出せない。言霊の魔力だ。
人生の最期の瞬間に、涙ぐむ人々の前で、最高にしょうもないことを呟く自分を想像する。「え、そこ?」と全員に思われながら昇天。ちょっと憧れる。