絶叫委員会

【第159回】恐るべき子どもたち

PR誌「ちくま」1月号より穂村弘さんの連載を掲載します。

 先日、久しぶりに電車に乗った時のこと。席があまり空いていなかったので、私はドアの横に立った。次の駅で小さな女の子が一人で乗り込んできた。制服っぽい恰好の、たぶん小学校の一年生か二年生くらいだろう。私とは反対側のドアの横に立った。ふと見ると、大事そうに文庫本を抱えているではないか。へえ、と思う。もう本が読めるのか。しかも文庫とは……。
 女の子は頁を開いて読み出した。その本がなんなのか、気になって仕方がない。身長差を利用して上空からさり気なく文字に視線を落とそうとした。その瞬間、女の子がすっと顔を上げた。どきっとして目を逸らす。なんて敏感なんだ。変に思われただろうか。彼女は続きを読みながらも、こちらにレーダーを向けているようだ。警戒されたのか。窓の向こうの樹々を眺めながら、私は動揺していた。違うんだ。怪しい者じゃないんだ。
 でも、そのことをどう表現すればいいのだろう。なんとか自分の真意を伝えて誤解を解きたい。脳内でシミュレーションを試みる。

「(にこっと笑顔を浮かべながら)何を読んでるの? 本が好きなの? 僕も好きだから、君が本を読んでいるのを見て嬉しくなってしまったんだ。ほら、お小遣いだよ(と五千円札を渡す)」

 駄目だ。これでは新種の変態だ。別に嘘は吐いてないのに。え? ということは変態なのか。混乱する。二つ目の駅で女の子は降りた。結局、書名はわからないままだった。
 また別の或る日のこと。最寄り駅から家に向かう途中で、学校帰りらしい小学生男子のグループとすれ違った。その時、こんな会話が耳に飛び込んできた。

「一日に三度しゃべれば友だちさ」
「俳句だな」

 え? と反射的に振り向いてしまった。そこにはランドセルの子どもたちがいるだけだ。うーん、と思う。なんという高度なやり取りなんだろう。「一日に三度しゃべれば友だちさ」と云う言葉も妙に含蓄があるが、それを受けての「俳句だな」って何なんだ。メタレベルの返しか。
 文庫本の女の子といい、ランドセルの男の子たちといい、いったいどうなってるんだろう。もしかして、私が知らないうちに令和の小学生は進化しているのか。新型コロナウイルスの蔓延という危機に際して、ヒトという種のレベルでの対応策が発動したのかもしれない。

「(にこっと笑顔を浮かべながら)今の五七五だったね。偶然が生んだ俳句、面白いね。『一日に三度しゃべれば』っていうのもリアル。新型コロナ以降しゃべる機会が激減だもんね。でも、ウイルスはコロナで終わりってわけじゃないよね。人類はサバイバルできるかなあ。君たちは二十二世紀を見るかもしれないね。ちなみに短歌はどう思う?」

 駄目だ。駄目である。