絶叫委員会

【第154回】このままでいいのか

PR誌「ちくま」8月号より穂村弘さんの連載を掲載します。

 昨年、仕事で静岡に行った時のこと。夜の繁華街で若い男性に声をかけられた。

「居酒屋いかがですか……」

 客引きか、と思って曖昧に首を振りながら、そのままゆこうとする。その時、彼の言葉の続きが耳に入った。

「……奇蹟を起こすんで」

 えっ、と思ったけど、もう遅い。わざわざ引き返すのも勇気が要る。仕方なく遠ざかりながら、ぐるぐると考える。奇蹟って本当だろうか。居酒屋でどんな奇蹟を起こすんだろう。静岡では普通にあることなのか。いや、さっきの客引きは若かった。そして若者の言葉は大袈裟になりがちなものだ。神とか鬼とか糞とか、だから奇蹟と云ってもきっと大したことはないのだろう。
 そんなふうに自分に云い聞かせた。が、真実はわからない。あの夜、彼の言葉を信じた人は奇蹟に出会い、私はそれを逃したのかもしれなかった。
 先日、こんなポスターを見た。

 どこへ行っても治らなかった方、ご相談ください。

 なんだろう、と思って近づいてみると「小顔サロン」とのことだった。小顔の人だけが集まるサロンだろうか。そこに行けば、どんな大顔の人も小顔になれるのか。「どこへ行っても治らなかった方、ご相談ください。」という呼びかけは、小顔に治すためにさまざまな努力を重ねる人の存在を示している。知らなかった。その人にとって、この貼り紙は重要な意味を持っている。
 そういえば、あれはいつだったろう。早朝の吉祥寺で長い行列に出会ったことがあった。何の列なのか、並んでいる人々の様子から読み取ろうとする。が、わからない。特徴がないのだ。老若男女が混ざったランダムな列だ。中には折り畳み式の椅子に座っている人もいる。そこまでするのはどういう目的のためだろう。何か特別な新製品の発売日なのか。気になる。
 私はふらふらと近づいて、若いカップルに声をかけた。

「すみません、あの、これはなんの行列ですか」
「羊羹(よう かん)です」

 ようかん? 一瞬、脳内で変換できなかった。そのためにこれだけの人がこの時間から並んでいるのか。もう何年も食べたことがないけど、そういうものだっけ? 私の知っている羊羹とは位置づけが違うみたいだ。その日から、朝まで仕事をした時などに、ふと考えるようになった。今頃、あそこにはたくさんの人々が並んでるんだろうな、と。
 今日もまた、私は羊羹を食べず、大きな顔のまま、奇蹟に出会うこともなく生きている。このままでいいのか、とうっすら思いながら。
(ほむら・ひろし 歌人)

 

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