絶叫委員会

【第156回】うろこ幼稚園

PR誌「ちくま」10月号より穂村弘さんの連載を掲載します。


 今年の春は毎日のように家の近所を散歩した。新型コロナウイルスの影響で遠出ができなかったのだ。電車がこわい。お店がこわい。ホテルがこわい。散歩しかない。
 朝、おにぎりとお茶を持って家を出る。そして、ふらふらと歩きながら良さそうな公園を見つけたら、そのベンチで食べるのだ。食後はそのままミステリーなどを読む。ふと気づくと、似たようなことをしている人がたくさんいた。自分用の椅子を持ってきて、お気に入りの木陰で本を読んでいるおじいさんとか。いいなあ。
 散歩のおかげで、それまで存在を知らなかったいろいろに出会うことができた。こんなところにこんな公園が、遊歩道が、喫茶店が、川があったんだなあ。地元でも意外に知らないものだ。東京は小さな公園だらけである。
 そんな或る日のこと。住宅地の中に小さな幼稚園を発見した。やはり新型コロナのせいでお休みしているのだろう。園児の姿はなく、ひっそりとしている。誰もいないのに影のように気配だけが充ちている。放課後の教室とか休日の幼稚園には、不思議な魅力がある。不安なような、懐かしいような。
 それに惹かれてなんとなく近づいてみると、正門のところに大きな袋が貼りつけてあった。なんだろう。その上に、こんな文字が記されている。

「うろこはここへいれてください。」

「?」と思った。この袋の中にうろこを? なにそれ。なんのために。ってか、どんなうろこを? 人魚の幼稚園? まさか。数秒間、鳥肌が立つような混乱があって、やがて少しずつ静まっていった。なんかわかった気がする。
 今は四月。来週は五月。これはあれだな、たぶん鯉のぼり。いつもなら幼稚園の中で、園児たちが仲良く作っているのだろう。きゃあきゃあ騒ぎながら。
 でも、今年はウイルスのせいで休園中。だから、仕方なく一人一人の子どもたちがそれぞれの家で作った「うろこ」を、ここに入れることにしたんじゃないか。それを先生たちがまとめて貼り合わせて、大きな鯉のぼりに仕上げるのだろう。
 私は自分の名探偵ぶりに満足した。明智小五郎、金田一耕助、シャーロック・ホームズ、エラリー・クイーン、ミス・マープル、隅の老人、思考機械……。
 その一方で、この推理に到達するまでの混乱した数秒間に焦がれるような気持ちを抱いた。「うろこはここへいれてください。」という言葉の不気味さに慄きながら、私は強烈な異変の匂いを感じていた。世界は変わった。そこには人魚の幼稚園がある。ウイルスから身を守るために新しい人類はうろこで身を覆ったのだ。
 だが、次の瞬間、予兆は消えてしまった。アラームが鳴って「しまった」と気づいた神は、幼稚園の前に呆然と佇む人間の思考に素早く「鯉のぼり」という一語を差し込んだ。たちまちすべての辻褄が合って、その者は納得。現世の綻びは修復され、辺りはいつもの日常を取り戻す。異変は未然に防がれた。ただ世界に新型コロナウイルスだけを残して。
 

 

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