私たちの生存戦略

補論 最後の花嫁――幾原邦彦論・試論【前編】

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

大人とコドモ
だが、『少女革命ウテナ』でラストに示唆されてはいるものの、大人になってなおも生き続けることをめぐる問題はそのまま据え置かれていた。
そもそも幾原邦彦監督作品では、「大人」ないし旧世代は原則として解放され得ない。
たとえば『輪るピングドラム』(2011年)の旧世代=親世代とはテロルに至る犯罪者であった。比較的年齢が上の多蕗とゆりは救われるものの、二人は「あらかじめ失われた子ども」の行く末として表象されているのであって、象徴的には「子ども」であった。
あるいは『ユリ熊嵐』(2015年)では、主人公の母の友人(ユリーカ)は独占欲に苛まれた末に愛する人を死に至らしめてしまっていた。『さらざんまい』(2019年)では、レオとマブはマブの自己犠牲によってひとり残されたレオの絶望が描かれ、また兄である久慈誓は止むを得ない事情があったにしても犯罪に手を染め、結局彼の抱いた「この世界は悪い奴が生き残る」という信念が彼自身を滅ぼしてしまっていた。もちろん、『少女革命ウテナ』で最も明白に「革命」から取り残されるのは鳳暁生なる大人の男性である。
他人を傷つけてやまない「大人」が様々に描かれ、別の仕方での成熟が模索され、未来と救済が託されるものの、物語はしばしばそこで幕を閉じる。
大人と子ども、ないし世代の対立は極めて根深いものであって、望ましい仕方で大人になること、その後も生き続けることは可能性として示唆されるに留まっているのだ。

この傾向はもちろん、日本のアニメーションというジャンルが原則として未成年を描くことに特化しており、その意味でジャンルとして成熟を描くことそのものが限界づけられていることと無縁ではあり得ない。
が、とりわけ幾原邦彦監督作品においては、ジャンルの限界とはまた別の意味で、大人と子どもの二項対立が極めて根深いものであることは確かなように思われる。それは『少女革命ウテナ』と『輪るピングドラム』の間に横たわった十年を超える歳月の内で、中村明日美子による漫画作品として連載を開始された『ノケモノと花嫁 THE MANGA』(2007年〜2020年)において、最も明白に主題化されていたのだ。
そしてこのことは冒頭に掲げた問い――棺の奥深くに閉じ込められたまま決して解放されない〈花嫁〉とは誰か――と不可分に関わっているのだ。
一体、最後の〈花嫁〉とは誰なのだろう?