私たちの生存戦略

補論 最後の花嫁――幾原邦彦論・試論【前編】

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

成熟とは何か
そして『少女革命ウテナ』は、この種の複雑さを見事に再現してみせる物語であった。
物語には女の子だがお姫様よりも王子様になりたいと考え、男装して生活を送る天上ウテナなる少女が登場する。彼女は幼い頃に自分を孤独から救ってくれた「王子様」への憧憬を抱えていた。そんな彼女が不意に、剣を交えて決闘し、勝った者が「薔薇の花嫁」なる姫宮アンシーという少女を「所有」できるという不可思議なゲームに巻き込まれてしまう。アンシーを我が物顔で「所有」し、暴力を振るう男の姿を目の当たりにしたウテナは憤り剣を取るのだ。まるで王子様のように。
だがもちろん、物語の中で「薔薇の花嫁」の役割を負わされた少女、姫宮アンシーは単純なキャラクターではあり得ない。女の子を決闘でやり取りするなんておかしい、姫宮は普通の女の子なんだ、薔薇の花嫁になんてなりたくないんだ、と言い募る、それ自体は「正しい」かのようなウテナの主張はアンシーにとって単に歓迎すべきものではない。むしろアンシーは物語の中で「不気味」と形容されるような行動を取り、ウテナを幾度となく裏切る。ウテナの「王子様ごっこ」を嘲笑し、あなたをずっと軽蔑していたのだとさえ言うのだ。
それは彼女が深々と内面化した規範によるせい、とばかりも言えない。
実際、ウテナのあまりにも無邪気な「善意」は、アンシーの痛みを真に理解しようとしないことによって成り立っていたのだから。かわいそうなあの人を助けてあげなくちゃ、と思うことは傲慢である。ヒロイズムに酔っているだけである。自分の善意があるがままに受け取られると信じることは、端的に善意の押し売りである。「王子様ごっこ」である。

だが、積み重なっていく共に過ごす時間がウテナを変えていく。
傷つき傷つけられ、アンシーの痛みを知っていく。孤独の中で「王子様」に憧れ、それを身にまとうことで自らを守っていたことに気づかされていく。
だから物語の終盤、最後の決闘でウテナの背中を刺したアンシーに向かってウテナは「君は知らないんだ、ボクがどれだけ君といて幸せだったか、救われていたか」と言うのだ。そもそもウテナはただ天真爛漫なばかりの人物ではなかった。彼女は幼い頃に両親を亡くし、深い傷を負い、だからこそ「王子様」になることを欲していた。彼女のあまりにも一途な「王子様になる」という望みとは、そのトラウマが生じさせるメサイアコンプレックス――自らの孤独と絶望を抑圧し、救済者になることで自己肯定を試みる――であり、この意味でウテナは単なる救済の「象徴」ではあり得ない。アンシーが囚われていたように、ウテナもまた異なった仕方ではあるにせよ囚われていたのだ。アンシーとウテナの抱える問題はそれぞれ異なる。
けれども、学園中の人気者で、実際に明るく振る舞う彼女の奥深くに存在していた孤独を、幻影としての「王子様」ではなく現実に隣にいる友人として知っていたのは、彼女の幻想を打ち破ったのは、囚われることの苦しみを知っているアンシーに他ならなかったのではないか? 異なる痛みを抱えた人間同士が、傷つけ合いながらそれでもなお共に抜け出そうとする様を描く物語こそ、『少女革命ウテナ』ではなかったか。
天真爛漫で無邪気なばかりだったウテナが自ら「王子様ごっこ」と口にし、「君がどれだけ苦しんでいたか」知らなかった、何も気づけていなかったのだと苦しみの中で語る時、彼女はもうただ「王子様」に憧れていた子どもではない。
ウテナが自らも満身創痍の中、それでも痛みに苛まれるアンシーを見て「姫宮がかわいそうだ」「助けてあげて」と言葉を絞り出す時、それはかつての「王子様ごっこ」ではあり得ない。真に相手を知ること、痛みに寄り添うこと、その解放を何にも増して優先させるウテナは、ニヒリズムに安住して他人を傷つけてやまない自分を省みることさえやめ、自己憐憫に浸って涙してみせる「大人」とは全く別の意味で「大人」になったのだ。
成熟とは妥協でも諦観でもない。他者の苦しみを知ろうと努めること、自己本位な世界から抜け出て、他者に手を伸ばそうと試み続けることそのものなのだ。